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日蓮大聖人・池田大作

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岐阜・東濃圏記念勤行会 潔い信心で幸せの旅を

1978.7.28 「広布第二章の指針」第14巻

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5  (第四回)
 「妙一尼御前御返事」の「法華経釈迦多宝・十方の諸仏菩薩・諸天善神等に信を入れ奉りて…」の御文は、御本尊に”信”を入れて祈ることがいかに重要であるかを教えられている。
 ”信”を入れることとは、具体的にいうならば、広宣流布に生き折伏弘教に生きつつ、自身の宿命転換への強い祈念を込めていくことである。この大目的に連なった信心に福運はいや増し、師子王のごとき勇気あふれる境涯で、人生を闊歩していけるのである。
 東濃の友は、すべての人々が大信力をいだし、理想的な東濃の郷土を建設していっていただきたい。
 また「しかのみならず正直捨方便・不受余経一偈の経文を」の御文は、時代がどのように変遷していこうとも、謗法禁断の精神だけは永遠に忘れてはならないということである。水の流れるがごとくに進む。信心一途に生きる。これが人生究極の姿勢なのである。
 どうか、東濃の皆さんは、きょうの日を、題目の力がどれほど偉大であったかをしみじみ感じていける人生への出発としていっていただきたい。
6  (第五回)
 信心の究極は「無疑曰信」にある。すなわち「無疑曰信」の信心とは、いかなる障魔にも一切紛動されず、御本尊をどこまでも信じて疑わず、御本尊は絶対であるとのゆるがぬ信心を貫き通すことである。
 その信心に立ったとき、三世十方の仏菩薩がかならず守るであろうことは、御聖訓に照らして明白である。
 また、どのように教学に精通しようとも、世間の才能に恵まれていようとも有解無信であるならば、一生成仏への道はない。たとえ教学に精通していなくとも、絶対の信心があるならば、かならず一生成仏は疑いないのである。
 まさに、信心にまさる人生はないのであり、その地涌の固いスクラムは、いかなる権力、障魔といえども破ることはできない。
 ゆえに信心第一に、仲よく強盛なる信心を貫き、尊い一生をともどもに前進し、福運にかざられた所願満足の人生であっていただきたい。

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