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創価大学第8回入学式 21世紀こそ諸君の舞台

1978.4.10 「広布第二章の指針」第13巻

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2  不屈の魂で力をつけよ
 そのためにも、諸君に私がお願いしたいのは、大学の四年間を通じて、おおいに力をつけていただきたいということであります。
 たしかに日本の社会の行く末は、一見するところ、まことに暗い。諸君たちが切り開いていかなければならない未到の道は、いばらにおおわれているといってよい。大学といえども、そうした社会の風波の外にあることはできません。ましてや社会に出れば、もろにその風波が身に襲いかかってくるかもしれない。
 しかし、なんといっても、諸君は若い。若さというものは、どんな険難に直面しようとも、つねに希望と理想とを手放すことなく、満々たるエネルギーで挑戦していくところに、その本領を発揮するものであります。
 俗ないい方をすれば”負けじ魂”をもってもらいたい。不屈の魂は、かならず偉大な指導力を生んでいく。そして偉大なる指導力は、かならず時代を動かしていく。
 どうか諸君は、何があろうと、「よし、これからだ!」との意気に燃えて、学業の面でも、人間的成長の面においても、この広々としたキャンパスで、大きく力をつけていってください。
3  学ぶことのあり方について考えるとき、私がいつも思い出すのは、アリストテレスとその教え子たちの姿であります。ご存知のようにアリストテレス学派は、別名ペリパトス派、あるいは逍遥学派と呼ばれております。ペリパトスとは、散歩道を意味しております。アリストテレスが教え子たちといっしょに、ペリパトスを逍遥しながら、彼の理論哲学を語ったところから、この名前がつけられたのであります。
 アリストテレス哲学といえば、難解をもって知られております。その難解な哲学が、散歩での対話のなかで語られたという事実に、私は驚きを禁じえないのであります。
 私はこのことから、学問全般についてのあり方を論ずるつもりはありません。しかし、たしかに私の体験のうえからも、動きのなかに思考が回転し、新しい発想も生まれてくることは、一つ次元の真実であります。ゆえに教室での授業は、基本中の基本でありますが、さらに教授の先生方や友人との、生きいきとした人間的な語らいを、私はお願いしたいのであります。
 心のおきどころによっては、すべてが教師であり、すべてが成長の発条となっていくでありましょう。創価大学の全キャンパスに、いつも笑顔を漂わせた語らいの輪が広がることを、私は楽しみにしております。
4  もう一つ、これに関連した話をいたします。結核菌やコレラ菌の発見者として知られるコッホを、諸君は、ご存知のことと思います。彼に、こんなエピソードがあります。
 多くの人が、多額の費用を注ぎ込んで、アフリカの睡眠病原の探究に乗り出したときのことであります。いくら調査しても病原をつきとめることができない。さすがのコッホも落胆して、ある日、散歩に出かけた。
 川に沿って二つに分かれた道の一方から、担架に乗せられて睡眠病の患者がつぎつぎに運ばれてくる。だが、もう一方の道からはだれもこない。不思議に思ったコッホが、土地の人に聞くと、きょうだけではなくいつもそうだ、というのであります。そこでコッホは「一方にあって、一方にないものは?」と質問を発します。すると住民は「ワニです」と答え、コッホは「原因は、ワニだ」と直感した。
 そこで、ワニに群れるツェツェバエを取ってきて調べたところ、病原であるトリパノソーマが発見されたというのであります。
 明治四十一年来日した彼は「もしあの日あの時、自分が研究室の中の一学徒に過ぎなかったら、おそらく睡眠病の病原発見はできなかったであろう。研究者は窓の内にあっても、常に心を窓の外に注がねばならぬ」と語っております。
 私は、この話を読んで、さすがだと思いました。人文科学であれ、社会科学であれ、自然科学であれ、生きた学問というものは、学ぶ者自身が、つねに民衆や社会と交流しつつ、現実を呼吸していくなかに生まれるものなのであります。
 諸君のなかには、寮生活をする人もいるでしょう。自宅から通う人もいる。下宿生活を送る人もいると思います。ともかく、諸君の周囲には、つねに社会がある。社会の目は、諸君を注目しております。また大学では、滝山祭や大学祭、多くのクラブ活動もあります。その一つひとつが、みな社会に連結した青春の労作業と思ってください。
 諸君の出番は二十一世紀であります。また舞台は世界であります。その時になって、この四年間をどう過ごしたかは、おそらく決定的ともいうべき差を生ずるでありましょう。
5  豊かな国際感覚を
 私も面識のある、ある国際的ジャーナリストが、最近、一冊の本を著しました。この国際経験豊かな著者がしきりに強調していることは、欧米のトップクラスの人々と、日本のそれとの決定的な違いは、教養の広さと深さであるとい、政治家にしろ、経済人にせよ、本業での鋭さは当然のこととして、非常に幅広い教養の持ち主であり、食事やティータイムのときも、談論風発、相手をあきさせることがないという。それに比べると、言葉のハンディキャップを差し引いても、日本人は押されっ放しだというのであります。
 フランスの故ポンピドー大統領が、国賓を招いての夕食会の席上、ランボー詩を朗読したり、イギリスのヒース首相がオ―ケストラでベートーベンのシンフォ二―を指揮したり、などというエピソードをまじえ、語っておりました。
 そして著者がいうには、現代の指導的立場の人はともかく、これからの日本の担い手である青年たちに、そうした面でのひ弱さがたいへん目立つというのであります。私も、何度かの海外渡航を通して、ほぼ似たような感懐をもっております。
 その意味で私は、諸君に、豊かな国際感覚を身につけてもらいたい。幸い本学に、海外から留学している友人がおります。また、在学中に海外へ出かける人もいます。まず大事なことは、語学力を養うことであります。さらに、各国の文化を、優越感や劣等感でみるのではなく、人間としての共通性と、伝統、風俗等の相違とを明確に見極めて、さまざまな生き方があるということを、深い愛情と理解をもって知っていくことであります。
 ともあれ、学生の本分と目的は、学理の探求にあるといってよい。したがって、その目的を忘れて枝葉末節のことに流されていく愚に陥ってはならない。
 ゆえに二十一世紀の本格的な舞台へ躍り出すための基礎工事をするのが、この四年間であることを、けっして忘れないでいただきたいのであります。
 最後に、ご列席の先生方には、これらの有為なる青年たちを心から薫育、ご指導くださいますよう心からお願い申し上げて、私のあいさつとさせていただきます。

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