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創価中学・高校第10回入学式――記念講… 苦楽分けあう生涯の盟友たれ

1977.4.9 「広布第二章の指針」第10巻

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4  美しい友情の園たれ
 第三に、この学園を美しい”友情の園”としていただきたいということであります。最近の世相をみるにつけ、私がもっとも憂えていることの一つは、真の友情が失われてきているということです。学友とか級友とか、言葉としてはいろいろありますが、そこから友情というものが失われつつあるのが現代の状況ではないかと、心配しております。
 競争の時代にあって、友人はむしろ対立者となって冷淡な敵意が流れていることさえしばしばあるようです。世間においても、親友としてお互いに許しあった二人が、利害がからむと、とたんに敵対者となって憎みあうという悲しい姿も、しばしばみられるのであります。
 「友」という字は、語源的には「手と手をあい携え、互いに助けあう」ことを意味している。その本義からすれば、「友」という人間関係は喪失しつつあるのが悲しい現実のようです。しかし、この「友」という関係こそ、人間としてもっとも尊い姿だといえるのであります。
 仏法の言葉に「慈悲」という言葉がありますが、この「慈」と訳された言葉の原語は「メッター」であり、これは「友情」を意味するのであります。そしてこの「メッター」という言葉は、他の人に対して「幸福」と「平和」と「安楽」を念ずる気持ちを表しているということです。
 この心を、仏法ではもっとも尊いものとして論じているわけであります。ある経文のなかには「善友をもち、善友とともにいることが、仏道のすべてである」という意味のことを説いた一節もあります。
 また「慈悲」の「悲」という言葉は「呻き声をあげる」ことを意味する「カルナー」から訳されたもので、これは「他人の苦しみを聞いて、自分の心を痛める」という意味であります。すなわち、友の幸福を祈り、友の苦しみをわが苦しみとして、ともに分けあっていくことこそ、仏法の慈悲の精神であり、これを体現していくことこそ、真実の人間精神の極致であるといってもよいのであります。
 皆さん方は、この学園をこのような友情で満たしつつ、人生のきらめく思い出を刻んでいただきたい。そして、この友情を生涯、貫いていただきたい。
 最近はあまり使われないようでありますが、「盟友」という言葉があります。「固い約束を結んだ友人」「同志」という意味であります。
 どうか皆さん方は、皆さんの先輩が心をこめて歌った学園寮歌にもありますように、「英知をみがくは何のため」「人を愛すは何のため」「情熱燃やすは何のため」ということをお互いに忘れることなく、一生涯、手を携えて進んでいく盟友であっていただきたいのであります。
 ともかく私の願いは、諸君たちが、次の時代を担って立つ、力ある偉大な庶民のリーダーに成長していただきたいということ、ただそれのみであります。諸君たちが、大きく世界に雄飛する日を、私は一日千秋の思いで待っております。
 諸君たちの青春が、桜花爛漫の青春であることを心から祈ります。学園の先生方には、学園生の諸君が桜花爛漫の青春を誕歌できるように、どうか全魂のお力添えを重ねてお願い申し上げます。また父兄の方々には、どうかご安心してお子さんを、そして学園を見守っていただきたいことを申し上げ、私のお祝いの言葉とさせていただきます。
 本日はたいへんにおめでとうございました。(大拍手)

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