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創価大学第3回卒業式――記念講演 永遠に民衆と歩む指導者たれ

1977.3.18 「広布第二章の指針」第10巻

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3  現実から謙虚に学ぶ生き方
 学問にかぎらず、ごく日常の知識やものの考え方においても、このことは同じであると思うのであります。俗に、意見の対立とか、世代の断絶と呼ばれている現象にしても、対立や断絶である以前に、既成の知識への執着心が必要以上の反目を呼び起こしている場合が、往々にしてあります。
 母なる大地から謙虚に学ぶ「智慧」さえあれば、互いに協力し、よりよい未来を創造していく活力を得ることができる。私はこれが、真実の「智慧」であると思うのであります。
 学問といい、知識といっても、この「智慧」に裏づけられてこそ、人類社会に価値をもたらしていくものであります。
 仏法には「有作」と「無作」という考え方があります。「有作」とは直接的には、自然のままの姿でなく、そこになんらかの作為やとりつくろいがあることを指しますが、敷衍させていえば、自然現象や社会現象を含む一切の現象面を意味しております。
 これに対し「無作」とは、あらゆる作為を排した自然そのものの姿、広くいえば現象面の奥底に位置する見えざる「生命の実在」ということであります。そしてこの「無作」というものが根底に位置してはじめて、あらゆる「有作」が正しい創造、発展に寄与していくことができると説くのであります。いうなれば、学問や知識は、この「有作」の範疇に属するといえる。それに対し、絶えざる価値創造の原動力としての智慧は「無作」であります。
 どうか、諸君は少々の困難や試練に挫折したり、不平不満だけの灰色の人生ではなく、生涯たくましい智慧を発動しつつ、見事な価値創造の人生を送っていただきたいのであります。
 ところで現実から謙虚に学ぶとは、いったい具体的にいうと何を意味するか。それは私は、つねに民衆のなかに入り、民衆とともに歩むという姿勢が、それにあたると思うのであります。現実といっても、固定したなにかがあるわけではけっしてありません。
 民衆一人ひとりの喜びも悲しみもすべてを内に含みつつ、流動してやまぬものであります。学問や知識も、もとはといえばこの土壌から養分を吸い上げ、育っていったものです。もし、この民衆という大地を忘れたならば、ひからびた、色あせた体系と化してしまうことは必定です。
 ですから、諸君は学歴や知識の高みにひとり安住し、人々を、民衆を睥睨していくような傲慢なエリートだけにはけっしてなってほしくない。
 かのゲーテの格言集に次のようにある。「あたらしく世のなかに出たわか者たちが、自分を一かどの人間とおもい、すべての長所を持ちうると考え、あらゆる可能性を信じるのは、大へん結構なことだ。しかし、かれの教養がある段階まですすむと、かえって自己を周囲の平凡人のなかに埋没すること、他人のために生き、自分を義務と実践のなか忘却することを学ばねばならぬ。そうして、初めてかれは自己を知ることができ
 る。なぜなら、人生の行為が、ほんとうに自己と他者とをくらべて見せるからである」
 ――こう結んでいる。文豪ゲーテにしてこの言あり、の感を深くするものであります。
 諸君は、若いのでありますから、自信をもつことも結構でしょう。夢なき世代にあって大いなる希望をもつことも尊いことであります。しかし、そうした自信や希望や使命が、真実に自分自身のものとして血肉化されるためには、民衆という海のなかで忍耐強い実践を続けることが、欠かせない重要なポイントとなってくるのであります。
 私の所感の一端を申し上げ、”複雑きわまりなき実社会に凛々しくスタートしゆく諸君よ、断じて負けるな!”と願って、私の送別の言葉とさせていただきます。(大拍手)

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