Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

創立46周年記念儀式 永遠に生死不二の師弟道を

1976.11.18 「広布第二章の指針」第9巻

前後
7  大阪は錦州城であり、人材の石垣をもって築かれた常勝の、広宣流布の大阪城であります。歴史上の大阪城は、難攻不落の名城といわれてきましたが、主君の秀吉が死んでからは、崩れるように落城してしまいました。
 この大阪城落城にまつわるエピソードで、評論家の小林秀雄さんが興味深いことを書いておられたのであります。大阪冬の陣、夏の陣についてあった一人の武士の話を紹介しています。
 それは、大阪冬の陣で有名な、大野修理の弟で大野道賢(道大)という武士のことであります。冬の陣の後、徳川、豊臣の和談が成立し、家康は大阪城の総堀を埋めました。
 これは、家康が大阪城を攻め落とすための策謀であると見破った道賛は、おおいに憤り、堺の町に火を放ちました。
 家康はこれを聞いて道賢を憎み、夏の陣が始まると、大野道賢を生け捕った者を第一番の功名とするとふれ、結果、道賢は生け捕りになってしまいました。
 中国および日本では、一般に生け捕られることを恥とする伝統がありましたが、道賢は、古今の勇士にも生け捕られたことは例のあることと、少しも動じないで平然としていたそうです。堺の町人が、こういう放火犯人は、焼け跡で火あぶりにしたいので、引き渡してもらいたいと願い出、道賢は火あぶりにされることになりました。
 それも、七転八倒の苦しみを与えるため、遠くから徐々にあぶっていくという残忍なものであった。しかし、道賢は柱にしばりつけられたまま、少しも動かないで黒焦げになっていったという。検使のものが、もの足りない様子をして、真っ黒焦げの焼死体に近づいたところ、死んだと思った道賢が、ムクムクと動き出して、検使の脇差を抜いて検使の腹をグサリと貫いた。と同時に、真っ黒な道賢の体が灰になってしまったという話であります。
 小林さんは、こんな話を聞くと、皆、笑うかもしれないが、自分はほんとうだと思うといわれています。
 ともかく道賢という一人の武士の徹底した執念というものを表すために、このような伝説が伝えられたのだと思います。
 これに共通する話として、私どもは、有名な中国の石虎将軍の説話を知っておりますが、一人の人間が本気になって何事かをなさんとしたときには、常識では考えられないことを成就できるという原理を、この説話からくみとっていただきたいのであります。
 もちろん、道賢や石虎将軍の生き方の是非をいっているわけではけっしてありません。むしろ、皆さんが、常楽我浄の人生をゆうゆうと楽しみながら、明朗に生ききっていくことが、私の願いでありますけれども、しかし、大事なときにはその決心、執念というものを忘れてはならない、ということであります。
8  前会長の33回忌めざして
 ともあれ、今回、三十三回忌法要を迎えた牧口先生は、広宣流布のため、創価学会を死守し、宗門を外護するため毅然と獄中で逝去なされているという事実であります。
 この牧口先生の、文字どおり命をかけての一念が、創価学会の歴史と伝統に、いまも脈々と波打っていることを忘れてはならない。また、この波を後世に伝えていかなければならないということを、私は申し上げておきたいのであります。
 七十歳を超えた牧口先生が、ご老体の身で、殉教の瞬間まで独房のなかで敢然と戦われたということは、壮絶無比という以外に言葉がありません。全部、私どものために、そうしてくださったわけであります。
 そして、この牧口先生の死と時を同じくして、同じく独房で坤吟されていた戸田先生は、地涌の菩薩としての不可思議の境地を体得された。ここに意味がある。初代、二代と会長が、仏法のため、民衆のため、平和のために生命を賭して築いてくださった尊い学会であります。どうか、この学会を永久に守りきっていただきたいのであります。
 私たちの一生は、夢のようなものでありますが、この一生を、妙法流布にかけて、次の大きな目標である、一九九〇年の恩師戸田先生の三十三回忌をめざして、私とともに、勇往邁進していただきたいことを、お願い申し上げるものでございます。
 最後に、大切な皆さん方お一人お一人のご健康と、ご一家のご繁栄を心からお祈り申し上げまして、私のあいさつとさせていただきます。

1
7