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創立46周年記念儀式 永遠に生死不二の師弟道を

1976.11.18 「広布第二章の指針」第9巻

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3  創価学会の原点
 恩師はつねづね、こうせつせつと語っておられた。
 「牧口先生は、私を牢獄にまで連れていってくださった。そのおかげで『在在諸仏土・常与師倶生』と妙法蓮華経の一句を身をもって読み、その功徳で地涌の菩薩の本事を知りえた」と。現在の学会があるのは、そして現在の私たちがあるのは、まさしく牧口先生、戸田先生のおかげであります。死して獄門を出た師と、生きて獄門を出た弟子の、死身弘法の戦いが、今日の宗門を見事に外護し、創価学会の大発艮をもたらしたのであります。
 牧口先生の卓越した識見と独創性を疑う人は、いまやおりません。しかし、一時代前までは、牧口先生の名は、獄中での尊い死をもって、不合理にも、この世から消されていたのであります。
 昭和二十七年に東京・台東区の大正小学校に、ある校長が赴任したときのことであります。校長室の歴代校長の写真に、どうしたわけか初代校長の写真がない。不審に思って調べたところ、牧口初代会長であった。掲げてない理由としては、獄死があげられていたというのであります。獄中で死んだ”犯罪者”の写真など校長室に掲げておくことはできないということだったのであります。
 その校長先生は、以来、牧口先生に関心をもって調査を続けたところ、地理学界で不朽の名著といわれる「人生地理学」を世に問い「創価教育学説」を著し、なかんずく軍部権力に屈せず、仏法の正義に殉じ、信教の自由を守りぬいた方であることを”発見”した。
 やがて、大正小学校の校長室には、初代校長の写真が掲げられることになったのでありますが、同じ校長先生が、異動することになり、次は同じ台東区の西町小学校に移った。今度は歴代校長の写真のうち、五代目から七代目へ飛び、六代目の校長の写真がない。これも調べたところ、案の定、牧口先生とわかり、やがて牧口先生の写真が、西町小学校でも掲げられるようになったというのであります。
 一つの例ではありますが、牧口先生の偉大さが、現在において広く識者の認めるところとなった陰には、戸田先生の存在が厳然としてあったということを忘れることはできません。もし、戸田先生なかりせば、牧口先生の名も、不滅の業績も、広く世に知られることはなかったと考えられるのであります。
4  恩師戸田先生は、私どもの原点の書である「創価学会の歴史と確信」という論文のなかで、次のようにいわれております。
 「私は牧口会長の死を知らなかった。昭和十八年の秋、警視庁で別れを告げたきり、たがいに三畳一間の独房に別れ別れの生活であったからである。二十歳の年より師弟の縁を結び、親子もすぎた深い仲である。
 毎日、独房のなかで、『私はまだ若い。先生は七十五歳でいらせられる。どうか、罪は私一人に集まって、先生は一日も早く帰られますように』と大御本尊に祈ったのである。……昭和二十年一月八日、投獄いらい、一年有半に、『牧口は死んだよ』と、ただ一声を聞いたのであった。独房へ帰った私は、ただ涙に泣きぬれたのであった。
 ちょうど、牧口先生のなくなったころ、私は二百万遍の題目も近くなって、不可思議の境涯を、御本仏の慈悲によって体得したのであった」
 「昭和二十年七月、出獄の日を期して、私はまず故会長に、かく、こたえることができるようになったのであった。『われわれの生命は永遠である。無始無終である。われわれは末法に七文字の法華経を流布すべき大任をおびて、出現したことを自覚いたしました。この境地にまかせて、われわれの位を判ずるならば、われわれは地涌の菩薩であります』と」
 この恩師の生命の叫びのなかに、創価学会四十六周年の今日をもたらした原点の誓いがあることを忘れてはならないのであります。もし、このお二方の偉大な師が出現されなかったならば、私ども地涌の陣列は、なかったのであります。
 私どもは、今後も、久遠の契りを現在に移した地涌の同志として「霊山一会儼然未散」の誓いをもって、不屈の前進をしていかなければ、この世に生まれきたった意義は、まったくなくなってしまうのであります。
5  関西教学の原点
 さて、本日の会場であります戸田記念講堂は、関西の同志の方々のお陰をもちまして、本年四月二日、恩師の十九回忌法要をもって開館した講堂であります。そのおり、私は皆さま方を代表して七十五本の桜の若木を植樹させていただきました。
 ご承知のように、恩師は昭和二十六年五月三日の会長就任とともに、七十五万世帯の達成を目標に掲げ、広宣流布の激闘に挺身されたのであります。植樹は、この願業を見事に成就された恩師が、昭和三十三年、桜花燗漫の春四月二日に、霊山へ還られたことを偲ぶものであります。
 当地は、地名も「桜の町」であるとうかがっておりますし、私は、戸田記念講堂へまいるたびに、恩師を思い起こすのであります。やがて春が到来するたびに、桜は六甲の山並みを望みつつ、万朶と咲き薫ることでありましょう。全会員の仏種爛熟と功徳燗漫の人生を、私は恩師の桜に託したい心境なのであります。
 私が、青年時代、この関西で一連の教学講義を始めた、その最初の教材は「諸法実相抄」でありました。昭和二十九年九月から開始されました関西の教学部候補生に対する講義を担当したのであります。その関西で最初に講義をしました「諸法実相抄」を、来年の聖教新聞新年号から、もう一段深く講義を掲載させていただく予定であります。毎月一回行われたこの講義を思い出すとき、常勝関西を築き上げた草創の友人たちが懐かしくてなりません。
 翌年、昭和三十年も、毎月一回関西で講義を続けました。「関西は教学が必要だ」といわれていた戸田先生の意志を受け、それこそ全力投球で講義に臨みました。関西の同志もよく御書を学び、実践の教学を合言葉に、よく戦ってくれました。
 この地道な教学研鑽をとおして培った基礎体力が、大関西の偉大な構築の原因となったことは、疑う余地がございません。これからも、どうかこの講堂を使いまして、思うぞんぶんに、日本第一の教学の盛んな関西になっていただきたいことが、私の願いなのであります。
 昭和三十一年一月四日、私は戸田先生から、関西の指揮を執るようにといわれ、一人で大阪へ向かいました。一月の初めで、さすがに寒さの厳しかったことを覚えています。
 その日、大阪は冷たい雨が降っていました。夕方、当時の関西本部に到着し、居合わせた代表十数人の同志とともに、関西本部常住の御本尊に心ゆくまで勤行、唱題をいたしました。私はそのとき、ご祈念したことは「日本一の関西になってもらいたい!」という一事でありました。
6  戸田先生は東の東京に対して、西の大阪を広宣流布の大牙城にするとの構想を描いておられた。この構想を具体化しなくてはならなかった。それには、まず「勤行」そして「御書」をとおして、一人ひとりを立派に育て、みがきあげていくという訓練から始まったわけであります。この方程式は、いずれの時代でも、どこの地域でも、同じでなくてはなりません。
 戸田先生は一月十六日、大阪に駆けつけてくださり、第一回の関西での一般講義を中之島の大阪市中央公会堂で行ってくださいました。
 三年半前の昭和二十七年八月、戸田先生が初めて大阪へ来られ、講義されたとき、その受講者はわずか百人足らずでありましたが、三年半後では、七千人もの人々が喜々として参集していたことも懐かしい思い出の一つであります。
 この講義を第一回として、戸田先生は、ご逝去前年の三十二年十一月まで、約二年間にわたって続けてくださいました。戦時中の獄中生活のため、衰弱されたお体で、非常にお具合の悪いときでも「関西の会員にどうしても講義をしてあげなければかわいそうだ。経文には『未曾暫廃』とあるではないか。講義の途中で倒れるならそれこそ本望である」といわれ、毅然として講義に臨まれた姿を、いまもはっきり思い起こすのであります。
 今年の一月にもお話をいたしましたが、昭和三十一年二月十一日、恩師が五十六歳になられた誕生日の日に、
  関西に 今築きゆく 錦州城
    永遠に 崩すな 魔軍抑えて
 という和歌をさしあげました。戸田先生はさっそく返歌をくださり、
  我が弟子が 折伏行で 築きたる
    錦州城を 仰ぐうれしさ
 と詠まれたのであります。
 これは、当時の私の誓いでありますが、生死不二の恩師に見守っていただき、喜んでいただきたいという私の気持ちは、いまも、これから先も、変わりありません。
7  大阪は錦州城であり、人材の石垣をもって築かれた常勝の、広宣流布の大阪城であります。歴史上の大阪城は、難攻不落の名城といわれてきましたが、主君の秀吉が死んでからは、崩れるように落城してしまいました。
 この大阪城落城にまつわるエピソードで、評論家の小林秀雄さんが興味深いことを書いておられたのであります。大阪冬の陣、夏の陣についてあった一人の武士の話を紹介しています。
 それは、大阪冬の陣で有名な、大野修理の弟で大野道賢(道大)という武士のことであります。冬の陣の後、徳川、豊臣の和談が成立し、家康は大阪城の総堀を埋めました。
 これは、家康が大阪城を攻め落とすための策謀であると見破った道賛は、おおいに憤り、堺の町に火を放ちました。
 家康はこれを聞いて道賢を憎み、夏の陣が始まると、大野道賢を生け捕った者を第一番の功名とするとふれ、結果、道賢は生け捕りになってしまいました。
 中国および日本では、一般に生け捕られることを恥とする伝統がありましたが、道賢は、古今の勇士にも生け捕られたことは例のあることと、少しも動じないで平然としていたそうです。堺の町人が、こういう放火犯人は、焼け跡で火あぶりにしたいので、引き渡してもらいたいと願い出、道賢は火あぶりにされることになりました。
 それも、七転八倒の苦しみを与えるため、遠くから徐々にあぶっていくという残忍なものであった。しかし、道賢は柱にしばりつけられたまま、少しも動かないで黒焦げになっていったという。検使のものが、もの足りない様子をして、真っ黒焦げの焼死体に近づいたところ、死んだと思った道賢が、ムクムクと動き出して、検使の脇差を抜いて検使の腹をグサリと貫いた。と同時に、真っ黒な道賢の体が灰になってしまったという話であります。
 小林さんは、こんな話を聞くと、皆、笑うかもしれないが、自分はほんとうだと思うといわれています。
 ともかく道賢という一人の武士の徹底した執念というものを表すために、このような伝説が伝えられたのだと思います。
 これに共通する話として、私どもは、有名な中国の石虎将軍の説話を知っておりますが、一人の人間が本気になって何事かをなさんとしたときには、常識では考えられないことを成就できるという原理を、この説話からくみとっていただきたいのであります。
 もちろん、道賢や石虎将軍の生き方の是非をいっているわけではけっしてありません。むしろ、皆さんが、常楽我浄の人生をゆうゆうと楽しみながら、明朗に生ききっていくことが、私の願いでありますけれども、しかし、大事なときにはその決心、執念というものを忘れてはならない、ということであります。
8  前会長の33回忌めざして
 ともあれ、今回、三十三回忌法要を迎えた牧口先生は、広宣流布のため、創価学会を死守し、宗門を外護するため毅然と獄中で逝去なされているという事実であります。
 この牧口先生の、文字どおり命をかけての一念が、創価学会の歴史と伝統に、いまも脈々と波打っていることを忘れてはならない。また、この波を後世に伝えていかなければならないということを、私は申し上げておきたいのであります。
 七十歳を超えた牧口先生が、ご老体の身で、殉教の瞬間まで独房のなかで敢然と戦われたということは、壮絶無比という以外に言葉がありません。全部、私どものために、そうしてくださったわけであります。
 そして、この牧口先生の死と時を同じくして、同じく独房で坤吟されていた戸田先生は、地涌の菩薩としての不可思議の境地を体得された。ここに意味がある。初代、二代と会長が、仏法のため、民衆のため、平和のために生命を賭して築いてくださった尊い学会であります。どうか、この学会を永久に守りきっていただきたいのであります。
 私たちの一生は、夢のようなものでありますが、この一生を、妙法流布にかけて、次の大きな目標である、一九九〇年の恩師戸田先生の三十三回忌をめざして、私とともに、勇往邁進していただきたいことを、お願い申し上げるものでございます。
 最後に、大切な皆さん方お一人お一人のご健康と、ご一家のご繁栄を心からお祈り申し上げまして、私のあいさつとさせていただきます。

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