Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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創価学会と未来を語る 生命の源から人間革命の大河を

1976.1.1 「広布第二章の指針」第8巻

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13  内なる変革に焦点
 司会 最後に、これまでも話がありましたが、創価学会の運動を一言にしていうならば、現在も、そして未来に向かっても”人間革命運動”であるといえます。個々人の人間革命をとおして社会のあらゆる分野に変革の波を起こしていくのであり、総体革命も人間革命という基本土壌のうえに開花していきます。この人間革命ということは、個々人のどういう姿、形にあらわれてくるのかを話し合っていただきたいと思います。
 福島 いうまでもなく人間は理性と同時に感情を有しております。いな、その奥には無限の生命の大海が広がっている。もし理性のみに、あるいは感情のみに人間把握の光をあてるならば、それは誤った人間理解をもたらし、人間諸事象のよってきたる本源というものも解明されない。日蓮大聖人の生命哲理は、トータルな人間把握から生命を抽出し、そこから蘇生の光と無限の力をくみ出したものですね。
 会長 私は、人間革命の姿は、宿命打開なり、生き方の変革、社会的姿勢の変革に、事実としてあらわれてこなければならないと思っている。そこにこれからの課題もあるし、百万言を尽くすよりも、その人間の事実の姿に勝るものはない――といいたい。
 まず宿命の打開だが、これまでの人類の歩みは、人間の幸福を求めて変革の視線をつねに外界へと向けてきた。産業革命といい、科学技術の革命といい、すべて目を外界へ向けてきた。いわば自然の征服とか、社会の束縛の打開にのみ、人間の英知を集中してきたわけです。これに対し仏法の英知は、宿命打開という、人間内部の縛の打開に目を向けています。
 秋谷 つまり変革の本源的支点を人間内部におき、人間の”業”なり、不可避とさえいわれる生命の習性を打開していくわけですね。人はだれしも、自分がどうしてこういう行動をとるのかと、自己を嫌悪しつつも、どうしても乗り越えられない部分があります。人間英知の第一歩は、たしかにこの内部の縛を乗り越えるところから出発しますね。
 北条 この宿命打開のために、生涯欠かさず持続していく人間革命のための作業が、仏界の湧現です。人間の生命は本来、醜悪な面も美しい面もともに持ち合わせている。貪瞋癡という貪、瞋、癡な側面もあれば、他人をあたたかく慈しむという一面もあります。
 機にふれ、縁に出あって、さまざまな生命の働きが瞬間瞬間に噴出します。人間革命とは、仏界というエゴを超克した慈悲の境涯の現出が根本になります。
 会長 そう。宿命打開、仏界の湧現は、これは不断になされゆくものでなければならない。いわば人間革命のための肥沃な土壌、栄養源を提供していく。そしてそこから生き方の変革、社会的姿勢の変革が、人間革命の厳たる結果として日々の生活、行動のうえに顕現されていくのです。ちょうど、人間革命の大河が目につかない生命という源から奥深く発して、人々の眼前をハッキリ流れゆく段階となる……。
 秋谷 人間の生命内面の変革というものが、人間の喜怒哀楽の日常に反映され、生きていくこと自体に、喜びを、力を、勇気を、希望を与え、生き方の姿勢に顕現されなければ、それは観念といわざるをえない。
 会長 六波羅蜜とは、もともと菩薩が悟りを得るための六種の修行をいうが、この内容は人間としての生き方へ基本的な指標を与えたものと考えられる。
 福島 檀那波羅蜜、尸羅しら波羅蜜、孱提せんだい波羅蜜、毘梨耶びりや波羅蜜、禅那波羅蜜、般若波羅蜜の六つで、それぞれ布施、持戒、忍辱、精進、静慮、知恵の意ですね。
 会長 大聖人の仏法は「六波羅蜜皆悉具足」である。釈迦仏法のような修行はまったく必要ない。しかし、絶待妙の立場から、御本尊を持った人の姿のうえに、しぜんに顕現されていかなければならない。
 その意味から私たちの実践でいえば、布施とはものを施すというより、法施が大事である。根本的には折伏弘教であるが、思いやりとか人間としての誠意も含まれる。持戒とは生活をコントロールしていくことであり、忍辱とは強き忍耐の人、いかなる試練にも打ち勝っていくことであろう。
 また精進とはたえず人間として成長していることであり、静慮とは自分を知り、思索し、そこから行動を起こしていく主体性である。知恵は人生を豊かにし未来を切り開いていく賢明さである。このように六波羅蜜も、人間性の財宝ともいうべき要素を指標として打ち立てたと考えられる。明朗さ、誠実さ、賢明さ、人間としての大きさ、深さといった生き方のうえに人間変革の姿はあらわれなければならないし、それが社会へと波及していく。
  日蓮大聖人は阿仏房へ「聞・信・戒・定・進・捨・慚の七宝」を教えていますが、これも人間としてあるべき姿を説かれたものですね。
 会長 そう。外なる宝ではない。内なる宝を輝かしていくことです。この七つの宝も人間としての証にほかならない。
 仏法とは人間の生き方の哲学である。正論を正論として聞ける(聞)ということも、信ずることの尊さ(信)も、生活を律する力(戒)も、自らを支える精神の基盤があるということ(定)も、たえずはつらつと向上していく息吹(進)も、人々のために尽くすということ(捨)も、自ら人生を省み次への発展を期すこと(漸)も、どれ一つとつても、人間としての輝きをもっている。人間存在とは、かくあるべきもの、またかくあらねばならないものなのです。いわば”七宝”とは、人間革命の照準でもある。その人間革命が、生命の奥深くから発するとするのが仏法の発想です。口でいかに人間らしい行動を唱えようとも、それは根無し草のようなものであって、仏界という生命の淵源から発するものでなければならないとするのが、仏法の考え方だ。
 たとえば仏法で説く”魔”という存在も、じつは生命の働きを表現したものだが、この魔のなかに「慈悲魔」というのがある。つまり表面的には慈悲の装いをもっていても、じつはエゴのかたちを変えた生命の働きをさす。
 このように人間生命の変化相は、慈悲さえも変質させうる要素をもつほど不安定で複雑です。これを仏界の湧現によって絶えず、いい方へ、いい方へと復元させていくことこそ肝要だ。じつにこの仏界の湧現という、私どもの生命を最高度に力強く回転させることが、人間革命への究極のエネルギーです。これが勤行というかたちで、つねに存在するところに、創価学会の強さがある。
 秋谷 いま「慈悲魔」について話がありましたが、逆境に苦しみあえぐ人に安易ななぐさめや、諦観を教えることは、かえって”悪”になります。
 また、慈悲の仮面を装いつつ、その下にエゴが隠されているのも「慈悲魔」である。徳川の五代将軍・綱吉の「生類憐みの令」で、動物と人間の立場がときに逆転した例や、極楽寺良観が生き草もとらないとして、一方で慈善事業をしつつも、漁民や農民を苦しめ、そのうえに君臨していたという姿もある。
 会長 そのとおりだ。売名で言葉のみを尽くして平和を語り、幸福を約束しても、自らの内に貪瞋をいだいている指導者は、まさに偽りの慈悲といえるだろう。
 北条 結局は、生命内面の変革という源が深くあってはじめて、人間革命の流れは、人間として生きる姿勢、そして、社会的姿勢への変革へと長く確実に及んでいくのですね。
 会長がローマクラブのアウレリオ・ペッチェイ氏と対話したおりに、ペッチェイ氏が述べていたことも、危機の現代にあっては人間行動の様式が問われているのであり、それを変えゆく以外にない。そのためには人間性の変革、さらに究極的には人間革命に帰着するという内容であったとうかがいました。
 会長 人間革命の姿は、人間のうえににじみでなければならないから、人間革命は即人間性革命へと発展していく。ペッチェイ氏は人間性革命から人間革命を志向しておられた。われわれは人間革命から人間性革命をつつんでいく。
 ともかく学会員一人ひとりのみずみずしい生命が、健康・青春の息吹に満ちて、未来社会創出の動力源となり、個々の人間革命を起点とした新しい社会建設のエネルギーが生み出されていくのである。この最小にして最大の人間革命という変革作業が、未聞の革命であることはいうまでもない。
 「創価学会と未来を語る」の座談会も、結局は一人ひとりの人間革命に帰着したようだ。歴史をつくるものは人間である、ということではあるまいか。
 たとえ、時代がどう動こうが、批判、中傷が盛んになろうが、われらはわれらの定めた道を進んでいこう。それが人間としての、もつとも崇高な道であることを知っているからである。「命限り有り惜む可からず遂に願う可きは仏国也」とある。私たちは、ほんとうの平和な社会を打ち立てるために、心血を注いでいく以外に大聖人の弟子の道はない。現在から未来へと確実な橋をつくり、やがて子らがその橋を渡り、新しい舞台の主役となって活躍する日を夢みつつ、私たちは殉教の精神で戦っていこう。
 司会 長時間、たいへんにありがとうございました。

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