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創価大学第5回入学式 真実の人間学を究めよ

1975.4.10 「広布第二章の指針」第6巻

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1  桜花爛漫たる陽春の本日、わが敬愛する創価大学の第五期生の入学式を迎えて、私は心から喜びにたえないところであります。
 このたび、立派に入学の栄を勝ち取られた若き俊英の諸君、ほんとうにおめでとうございました。(拍手)さらにはまた、新入生の父兄の皆さま方、まことにおめでとうございました。(大拍手)そして教授の諸先生方と職員の各位には、この大切なヤングの諸君を、過ぎし四年間にもまして、くれぐれもよろしくお願い申し上げるしだいでございます。(拍手)
 私は、新入生の諸君に対して、まず最初にこういう事実をお伝えしてみたい。
 長いあいだ、私が昵懇にしてきた一人の知人があります。先日、その人がこんな話をしておりました。
 「今年は三人目が、まあ、なんとか浪人もせずに大学へ合格できましたが、高校と違って、大学の受験というものは、当人にとって厳しい試練であるのはとうぜんとしても、振り返って、自分の受験のときと比べてみても、子供の受験のほうがなおつらいことがわかりました。こういうのを”親バカ”というのでしょうか」というのであります。
 いったい、これはなにを意味しているのでありましょうか。大学への入学は人生における一つの成功であります。そうすると当人は”それは自分一人の実力で成し遂げた。どうだ、おれもたいしたもんだろう”と、思いがちになるものであります。
 だが、それは違うと思う。そんな単純なものではない、ということを、私はこの知人の言葉が物語っていると思うのであります。もしも、自分一人の力で、という考えばかりであるならば、それは「一将功成りて万骨枯る」という覇者の道を行く者でありましよう。
 それは、王道に対する逆コースというべきものであります。これをふまえて、静かに振り返ってみていただきたい。するといろいろな事実が浮かび上がってまいると思うのであります。成人の一歩手前、諸君はまだ、たかだか二十年にも達しない短い歳月のあいだながら、生まれてこのかたどれほどの人が、どれほどの努力を自分に注ぎ込んでくれたか。しぜんにそれがわかってくると思うのであります。
 親はとうぜんとしても兄弟、そして小学校、中学校、高等学校の先生たち、さらには十七、八年間というこの間に、いろいろな友だちも、いろいろな角度、いろいろな意味あいにおいて、諸君が大学生になるまで、そのすべてが支えとなり、応援の力となり、そういう外側の良き縁に恵まれてこそ、自分の大学受験への力も生きたのだ――とわかってくるのではないでしょうか。
 すなわち「内と外と一体のところに成就した結果である」とみることができるわけであります。そうすると、しぜんに境智冥合してそれらのすべてに対して、感謝の念がわいてくると思うのであります。
 以上は、はなはだ東洋的な処世の見方かもしれませんが、しかし、私はそれをあながちに誤っているとも、古くて捨て去るべきものとも考えてはいません。
 「温故知新」――すなわち「新しきを知らんと志せば、まず古きを思え」という意味であります。これは、大学に入って新しきを知らんと志すならば、まず過去の諸現象を振り返ってみよ、そしていさんで前へ進め、というのが一つの真理であると思うので、あえてこういうことを申し上げたしだいであります。
 なお、さきほどすでに発表があったと思いますけれども、本学に対して隣の親しき中国からはるばると、留学生の方々が六人”向学の志”を同じくせんがために入学いたしました。アジアの平和のために、そして世界の平和のために、まことにうれしいことでありますけれども、諸君いかがでしょうか。(拍手)大学の先生方も、よろしく友人としてお願い申し上げます。(大拍手)
 ともあれ、いまは言葉は思うように通じないことはあっても、気持ちは通ずるものである。いわんや、心の奥底においておや――と私はつねに思っています。
 昔はこちらから中国に学びに行った。万里の波濤を乗り越えて出かけてまいりました。いまは、かたちはその逆かもしれませんが、しかし、堅忍不抜の生命力は同じことでありましよう。
 どうか、そのへんをくみとっていただいて、皆さま方、この隣人を、友人を、よろしくお願い申し上げるものであります。
 話はかわりますが、ある年のアメリカの教育委員会のレポートを抜粋してみます。それには、こんなことを述べておりました。
 「従来は、伝統的に”役に立つ教育”とは学生、生徒を、特定の仕事に対して、準備する教育のことだと考えられてきた。だが、今や時は移って、この論拠は通用しがたいものになった。
 最も役に立つ教育とは、青少年に生涯にわたって複雑な新しい問題と取り組むことができ、複雑で新しい技能をこなしていけるような力をつけてやる教育のことである。プラクチカル(実際的)な教育とリベラル(自由的)な教育との古い対立は、しだいに無意味になってきている」というのであります。
 これは教える側から”もの”をいっているわけであります。それに対して諸君は教えを受ける立場にいるわけでありますが、その立場からみても、この内容は理解できると思うのであります。
 ようするに、実際学と理想学とを、区別して考えていた時代は終わった。したがって、その選択は学生自身にさせるべきであろう。大学においては、教授も、学生も、もっと自主的に研究的態度にもとづいて、一切の根底ともいうべき人間学と取り組んでいくべきである。だいたいそのような趣旨のことをいっているのであります。
 私も、その方向に対しては大賛成の一人であります。過日、私は高校卒業の諸君に申し上げましたが、「大学とは現代にふさわしい独立人格をつくる四年間である」との基本を、いつも念頭においていただきたい。
 次に諸君は、重々ご承知のことでありましょうが、この創価大学は非常に新しい。新しいということは、無限な将来性をもっていることであり、半面には、その未熟性をかかえていることでもあります。ですから、その両極を見すえて、マイナスを減らして、プラスを増やしていかなければなりません。
 皆で、そうした労働を積み重ねていくところに、他に類をみないすぐれた伝統が築きあげられていくのであります。どうか、いまこの学舎に集った諸君、そのことを深く心において、願わくは、これからの四年間、高松学長とともに諸君それぞれに思いのままに青春を誕歌していってください。諸君がこれからの四年間、いかなることをなそうとも、私はそれを莞爾として受け入れてまいる気持ちであります。
 「平和へのフォートレス」でありますから、その建学の本義に違わぬかぎり、諸君は私のもっとも親しい永遠の隣人であり、友人であります。どうか、そのように承知してくだされば望外の喜びであります。
 どうか諸君は健康で、ぞんぶんに学問の世界に雄飛して、自らの能力を立派に開花していってください。

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