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信越代表者会議  

2008.8.24 スピーチ(聖教新聞2008年上)

前後
11  当局から病監に移ることを勧められた牧口先生は、11月17日、衣服と頭髪をととのえて、病監へ向かわれた。
 途中、足もとがもつれ、転ばれるが、最後まで一人で歩かれる。
 ベッドに身を横たえると、やがて昏睡状態に陥った。
 この日、当局は、牧口先生の死期が迫っていることを、先生の自宅に電報で知らせる。夜には、貞子さんが病監に駆けつけた。
 しかしその時、先生は、すでに昏睡状態であった。
 枕の下には、投獄中、家族より送られた手紙が置かれていたという。
 そして翌朝、大変に安らかな相で、霊山に旅立たれたのである。
 先生のご遺体は、貞子さんの実家の番頭に背負われ、目白の自宅に運ばれた。
 クマ夫人は、孫の洋子さんとともに、疎開先の茨城県古河から、帰京される。
 ご遺体と対面し、「やっと家に帰ってきたんですよ」と語りかけた。
 無実の投獄から、じつに、1年4カ月後のことであった。〈翌々日の20日、10人前後の親族・知人が出席し、自宅でひっそりと葬儀が営まれた〉
12  冷酷なる宗門
 牧口先生の殉教に対して、宗門は、あろうことか、「獄死」を理由に、先生に「大居士」の戒名を贈ることを拒否した。
 葬儀にも、所化小僧一人しか、よこさなかったのである。
 戸田先生は逝去後、「大居士」が贈られたが、牧口先生はその後も、「居士」のままであった。
 ようやく、1990年(平成2年)4月、戸田先生の33回忌の折、牧口先生に「大居士」が贈られた。
 〈貞子さんは「これも池田先生の尽力のおかげです」と感謝を語っている〉
 かえすがえすも、無慈悲で冷酷な宗門であった。供養を取るだけ取り、恩知らずにも」広宣流布を破壊する謀略に動いたのも、この年のことである。
 戒名は、成仏の本義とは無関係であるが、邪宗門の実態を歴史に留めるため、あえて紹介させていただいた。
13  師のために!
 難を受け、ともに牢獄に赴いた戸田先生が、牧口先生の獄死を知ったのは、年明け早々のことであった。
 先生は、当時を振り返って言われていた。
 「ちょうど、20年1月8日、忘れもしません、その日に初めて呼び出され、予審判事に会ったとたんに、『牧口は死んだよ』といわれました」
 「あれほど悲しいことは、私の一生涯になかった。そのとき、私は『よし、いまにみよ! 先生が正しいか、正しくないか、証明してやる。もし自分が別名を使ったなら、巌窟王の名を使って、なにか大仕事をして、先生にお返ししよう』と決心した」と。
 「巌窟王」──この信念で先生は、出獄後、師の仇討ちを誓い、学会の再建に、一人立ち上がられた。
 世界平和という牧口先生の壮大な夢を実現するため、事業も始められた。
 しかし、しばらくして戸田先生の事業は挫折。その結果、多額の借金を抱え、多くの人が、先生を誹謗しながら去っていった。
 その先生を支えるため、私は自らを犠牲にして、働きに働いた。
 冬なのに、オーバーもなかった。そんな私を、奇異な目で見る人間もいた。
 靴がなくて、げたを履き、「カランコロン」と音を鳴らしながら歩いたこともある。
 しかし私は、気にもかけなかった。師のために、悠然と胸を張って戦った。
 ある時は、ご自宅にうかがい、夜通し先生をお護り申し上げた。
 それほどまでに、私は、何もかも、先生に捧げたのである。
 経済的にも、社会的にも、名誉の上でも、先生を護り、だれも想像しなかった世界的な学会を築き上げた。
 これが、創価の師弟の勝利劇である。
 「師のために」──この心がなくなれば、仏法者ではない。この峻厳なる精神を、学会の永遠の伝統にしていかねばならない。
14  結びに、敬愛する信越の皆さんに、和歌を贈りたい。
  偉大なる
    おお信越の
      同志らは
    日本一なる
      信仰王者か
  師弟不二
    深く知りたる
      信越の
    同志に幸あれ
      三世に福あれ
 そして、「信越の同志 万歳! 信越の広宣流布 万歳! 諸天善神 厳護せよ!」と申し上げ、私の入信記念日のスピーチとさせていただきたい。
 我らは、世界一の平和の大事業を担っているのだ。これほどの誉れはない。
 不惜身命で戦おう! 折伏精神で語ろう! これこそ日蓮大聖人の魂であるからだ。
 私も、同志の皆さんの祈りのおかげで、ますます健康である。広布へ戦えば、元気になる。一人が立てば、必ず幸福の波動が広がる。
 若々しく進もう! すべてに勝とう! 勝利を祈って行動しよう!

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