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日蓮大聖人・池田大作

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創価学会の目指すもの 二〇〇一年への四半世紀

「池田大作講演集」第7巻

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8  宗教の使命
 八矢 ところで、やや話題が変わるかとも思いますが、世界的な交流ということは、私たちが一人ひとり自覚していよいよ推し進めていかなければならないわけですが、もう一方では、全部の人が世界へ行くなどということはできないし、またその必要もないわけです。現実的には、限りあるメンバーが直接的に貢献可能であって、大部分のメンバーは精神的には応援できても、具体的にどこかへ行ってなにかをするということはできないわけです。この点は、どのように……。
 北条 日本の我々になにができるか――これは、大切な課題です。海外に行くと、やれ日本では既成の権力が腐敗堕落しているうんぬんといってみても、いわゆる日本総体としてのなかに、創価学会があり、仏法があるという見方です。密着したイメージでとらえる。これは日本国内の諸悪の根源はこれだと指摘してもどうしようもない問題で、やはり日本が世界に対して模範的な国になること、そのような理想の社会を日本の地に打ち立てていくということが、まず大事なわけです。
 大聖人の仏法は、世界宗教としての普遍性にあふれたものであることは当然ですが、この仏法が日本から始まったことはまぎれもない事実です。ですから、日本に模範的な社会をつくっていくことは、私たちの負った不可欠の責務です。私たちが日本において、仏法民主の時代を築いていく――これは、自分のブロック、地域においても、即、世界につながっているということではないでしようか。このためにも、世界へ妙法の舞台が展開していけばいくほど、いよいよ私たち日本にいる人々の行動が重みを増してくるわけです。
 会長 いま求められているのは、大聖人のご指摘の「才能ある畜生」、すなわち理性ある野蛮人が、ほんとうの人間として脱皮していくことなのです。今日まで、人間は、外なる文明の利器に魅惑され、内なる変革を怠ってきたといってよい。それにたる哲学、宗教を置きざりにしてきたのです。
 この人間の変革こそ、現代の転換の本源と、私はみる。その現代における重大な試金石こそ、否、重要な核こそ、私たちであると自覚すべきであります。
 野崎 日本の宗教運動というものは、大胆にいうならば文化運動といっていいのではないでしょうか。いま政治を変えたら、それでいいという考え方がありますが、これは間違いです。ぜんぜん変わらないですよ。政治を変えるものはなにかというと、体制を変えたら変わるということではない。政治の仕組みとか、そのなかでの行動形態を規定しているものは、文化です。更にその文化の主体となるものは人間であり、根本的には「人間革命」こそ、もっとも大切であるということになるわけです。
 そういう意味では、一大文化運動という流れを、潮流を起こして、その流れのなかに一つの政治というものも出てくる。その大河をつくっていくのが、創価学会の役目です。どうしても、そうなつてくると宗教という問題がクローズアップされてこざるをえない。日本だけではないですか、宗教を論じられないのは……。
 八矢 そうですね。海外特派員の長かった森恭三さんも、いっておられますね。日本人がいちばんばかにされるのは宗教がないということですよ。外国からみていると、日本人はいったい、なにを支柱にして、なにを考えているのかさっぱりわからない。なにをやり出すのか危なくてしかたがない、と。エコノミツク・アニマル(経済獣)とでもいう他ないではないか、ということになるんです。この言葉は、最大の侮辱の言葉なんですね。
 また司馬遼太郎さんは、南ベトナムへ取材に行って、サイゴン大学の女子大生に「あなたはなにがいちばんこわいか」と問いたら「仏さまがこの世でもっとも恐ろしい」と答えられて、骨がガクガク震えるような感動をおぼえたとも告白されています。
 あるいは、ある日本人の紳士が、アメリカの学校を参観して女性の教師に「あなたはなにがこわい」と問うと「私は聖書がこわい」といわれ、宗教のもつ力に改めてびっくりした、とも語っておられました。日本の現在の宗教的痴呆状態も、これまた、世界のなかでも際立っているのではないでしようか。
 北条 中近東と日本とのあいだを通算七年間ぐらい、土地測量の仕事で行ったり来たりしていた青年が、向こうでの回教と生活との関係を直接体験し、宗教というものについていままでの自分の考え方に疑いを発し、思索を始めたとき、思い出したのが、日本の会社の寮にいたときに、まかないのおばさんから聞かされていた仏法の話であったという。その青年は、帰国してから、進んで入会したといっていた。
 野崎 「宗教をもった人間はもっともカツコウがいい」(笑い)という時代がくるのではないでしようか。これからの四半世紀というものは「完全に個人の時代」ともいえる。個人サイドの運動ですね。個人の自覚というか、個人の自立というか、ヨーロッパ・スタイル、なかでもフランス型ではないかと思うのです。
 ところが、いまの日本人には、そうした自立の支柱になる自分の信念を高めるだけのものがない。感情的なものでしか反発できない。社会を根源的に変革するためレジスタンスを起こすだけのものはない。スタイルだけがモダンになって、個人主義といっても頭だけにあって胴体はまったく変わっていない、ということになってしまう。大事なことは、一人ひとりが信念をもち、裏づけの哲学をもっているか否かということです。
 会長 確かなものがないと、人間として生きていけない時代になってきているといえますね。仏法の思想――中道という考え方は、これからの時代に非常に重要な問題になってくると思う。中道というものの考え方は、中間という意味ではない。かなり原点的なものなのです。個人を大事にする、個人の存在を全体よりも優先するとか、原点を方法論よりも優位におくとか、いろいろな把握の仕方がありますが、この中道主義ということに光が照射されていくにちがいありません。
 八矢 宗教をもっということに、もっとも誇りと自信をもたなければいけないわけですね。日本では宗教をもっていることを、弱者のような感覚で受け止めている。西欧の国々では異なる。宗教をもっということは”人間らしい”ということになる。
 野崎 さきほどもふれましたが、日本の社会というのは、政治優先主義なのです。この考えを逆転していかなくてはいけない。ここに創価学会の存在理由があり、戦いがある。政治をよくしようと思っても、政治はよくならない。政治の領域を縮小しなくてはいけない。
 そのためには文化領域の拡大です。それには人間そのものを解明する宗教が拡大されなければならない。これしか、政治の根本的解決はできないし、文明の転換もできないという、もっとも普遍性のある道理なんですよ。それがないところは、いつも政治権力によって民衆は犠牲になるのです。
 八矢 そういう意味で、政治的にれているうんぬんといわれるが、これからは宗教的に後れているか否かを、問題にしなければならない。宗教的に後れたものを啓蒙する運動が私たちの運動でしようね。宗教的に後れているということは、人間的に後れているということになるわけです。
 ブラジルのある人に聞いたことがあるのです。宗教をもっている人間ともっていない人物と、どちらが信用できるか、と。まったく同じ条件であるならば、宗教をもっている人間が信用できるという答えが返ってきました。
 北条 深さがある、という見方なんでしようね。外国では、ばくぜんたる無宗教ということは、恥ずべきことなのですよ。
 八矢 欧米では、どこのホテルへ行っても、どこの場所へ行っても、バイブルが置いてある。いずれは、どこへ行っても、御書が置いてある、というふうになりたいものです。
 会長 それは形式上の問題ではなく「御書運動」という事実の積み重ねが大切です。御書という原点に立ち返って、もう一度、御書を読み直す運動をやろうということです。これは内部的な問題であると同時に、今後、日本のおかれた立場で生きていくためには、強さをもった人間をつくるということからも必要です。
9  創価学会の連動
 会長 ここで再確認の意味で申し上げますが、いかに、教育、文化といっても、そのエネルギー源は、なんといっても、生命のなかからほとばしっていくものです。したがって、閉塞された生命を打ち破って、内よりみずみずしい力をわき立たせていくバネが必要です。これが、日々の一人ひとりの勤行、唱題です。更に、人間の互いの触発作業の場として、座談会が、決定的に重要な活動になる。このことについては、昨年の新年号に、すべて明らかにしてありますので、もう一度、これを血肉としていただきたい。
 いってみれば、座談会は、創価学会の生命線であり、人間の本性に根ざした仏法流布の大波です。この大波を起こさずして、教育、文化といっても、さざ波に終わってしまうにちがいない。
 それから、幹部は、決して官僚化してはならない。一人ひとりを大事にし、自ら動き、語り、その人がいるところ、絶えず渦流が起きているという状況でなければ、沈滞した創価学会になってしまう。
 仏法には、知道者、開道者、説道者という三つの仏法者のあり方が説かれている。天台によると、知道者というのは意不護(意を惜しんではならない)、開道者とは身不護(身を惜しんではならない)、説道者とは口不護(口を惜しんではならない)とあります。したがって、たえず心を砕いていく、動いていく、対話していく――この三つが幹部に息づいていることが必要です。この息づきがあるかぎり、生命体としての創価学会には停滞がない。
 野崎 会長の日々の行動を思うにつけ、そのことは強く感じます。一人の人間の渦動が一切の変革の起点であることは、永久に変わらない創価学会の血脈ですね。
 北条 いままでの話で、創価学会が二十一世紀までの四半世紀、なにをめざすかということ、そして私たちがいかなる姿勢であるべきか、どのような行動であるべきかということが明らかになりました。更に猊下が、総会で「舍衛の三億」の原理を発表されましたが、これは、私たちの運動として、どのように考えたらよいでしようか。
 会長 これは、日本の広宣流布について、猊下が、次の目標を示されたものです。つまり、宗門にはかねてからの伝統として、広宣流布というのは、日本国中、一人も残らず信仰することだという理想を描いていたことがあった。しかし、それは、あくまで広宣流布というのが、未来の理想としてある段階のときのことであり、広宣流布が展開されつつある現在、一つの現実的な路線を敷かなくてはならない、ということです。
 と同時に、これは、永久に、日蓮正宗を国教にしないとの意味が込められています。昨年十月、私が猊下に、仮に日本が、国粋主義、国家主義の方向をとった場合には、国立戒壇にするのですか、とおうかがいを立てたとき、猊下は、即座に「永久にしない」と断言されていました。じつは「舍衛の三億」の話も、このときに話題となったのです。
 それから「舎衛の三億」ということで大切なことは、仏法理念の真実の流布ということです。時代社会が、意識するとしないとにかかわらず、仏法を発想の源泉とする方向に動いていくということなのです。
 したがって、それであせる必要は、まったくありません。仏法をたもった一人ひとりが、日常の生活、現実の世界、自己の周囲において、信頼の同心円を拡大していくことに尽きるのです。折伏というのは”法”への帰伏ということが根本になりますが、それとともに人間としての共鳴であり、生命自体の感化といってよいでしよう。
 八矢 そうしますと、仏法というものが、私たちだけのものではなく、社会の共有財産となり、民衆の核になっていくと考えてよいですね。
 野崎 仏法は、人類への貴重な遺産であり、やがて時代的思潮の底流を形成していくようにしなくてはなりませんね。そのためには”法”の偉大さとともに、”人”の社会における信頼を高めていくことですね。
 会長 「減劫御書」に「法華経に云く「皆実相と相違背いはいせず」等云云、天台之を承けて云く「一切世間の治生産業は皆実相と相違背いはいせず」等云云、智者とは世間の法より外に仏法をおこなわず、世間の治世の法を能く能く心へて候を智者とは申すなり……外経の人人は・しらざりしかども彼等の人人の智慧は内心には仏法の智慧をさしはさみたりしなり」とあります。
 結局、社会のなかにしか、仏法はないのです。また世間の人々が、しぜんのうちに、仏法の知恵を発想としているという時代をつくっていくことでしようね。しかし、そうした時代を創造していくためには、まずなによりも仏法をたもった人が、その生活において、仏法がにじみ出て、人々の共感を得ていくことが、もっとも重要な決め手であると思います。
 北条 このことをふまえたうえで、これからの創価学会の運動は、更にダイナミズムが必要です。まず地域に即した主体性ある活動をさらに伸ばしていく。また、速距離通勤者、団地生活者、農村、漁村、社会的専門者など、個人差、生活サイクルの差を理解して、立体的な活動が必要になってくると思います。また、現在、同じ人間としての共通の立場から、人間広場運動を進めてきておりますが、これも、更に拡大していきたい。大B協議会を中心とした、自発的、能動的の活動も、当然進展させていく。こうした諸活動を、たんねんに盛り上げていくことが大事でしようね。
 野崎 結論的になりますが、こうした地道な活動の持続が、山梨県総会での会長講演のごとく、学会が平和勢力としての確実な地歩を築き上げていくことになるのでしようね。
 会長 そのとおりだと思う。最後に、もう一度、世界的視野に立って考えれば、現在、世界的展望に立つ指導者が、欠如していることです。人格、哲学、見識、国際性、行動力の面で世界を指導する多くの人材が出てもらいたい。私は、そのために道を開いていく。どうか、その意味で、人材育成にも、全力をあげてほしいのです。
 また、この背景には、学会員一人ひとりが、いずれの分野であれ、立場であれ、太陽の存在として輝いてもらいたい。その延長線上に、確実な平和への力が結集されていくからです。
 なかんずく指導的立場にある人の、絶えざる自己変革の連続こそ、今日までの権力の論理の流転に、終着をもたらすことになる。個人においても、総体においても、創価学会は人間革命運動が基調である。人間革命こそ、平和への無類の砦なのです。平和は、言葉ではない。うたい文句でもない。一人ひとりの一念のなかから発光してくるものであると、訴えておきたい。

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