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日蓮大聖人・池田大作

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創価高校第5回卒業式 能動的に自己を鍛えよ

1975.3.15 「池田大作講演集」第7巻

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3  常識への挑戦に学問の発展
 物理学の最高峰を極めたアインシュタインはこういっております。「常識とは十八歳以前に心に沈澱してつもりつもった偏見以上の何物でもない。それからのちに出会うどんな新しい考えも、この“常識”という自明な概念と戦わなければならない」というのです。すなわち彼は、既成の知識と戦っていくところに、ほんとうの前向きの“自分自身の学問”があると、確信にあふれて教えているわけです。
 実際、過去の学問の歴史は皆そのようにして発展がうながされてきたのであり、将来もまたつねにそうでありましょう。たとえば古い絶対論と、新しいアインシュタインの相対論との中間を開拓したコペルニクスも、まったく同じ態度でありまして、彼が樹立した地動説というものは、天動説というそれまでの“自明なる常識”にあえて挑戦したところから生まれたものであり、この史実は西洋史を通じて諸君にはそれこそ常識となっている話でありましょう。
 コペルニクスはこういっております。「太陽の方からながめて見た時、地球は初めてその正体を見せる」と。天動説に疑問をいだいた彼は、平凡な観測や計算に頼って、この偉大な発見をしたのではなかったわけです。彼の構想はこうでした。「世間の天文学者は皆、自分が住んでいる地球から太陽をながめて、その限りの立場から、天の方が動いている、と思っている。それならば、逆に、太陽の方から地球をながめたらどうなるか」というのであります。
 天動説だった古代ギリシャの神話では「この宇宙の中でアトラスという巨人が大地(つまり地球)をしっかりささえているから大地は動かず天の方が動くのだ」と説いておりますが、思考実験とはいえ、不敵にも天空高く舞い上がって、太陽にどっかと腰をすえて地球をながめるコペルニクスの力に出会っては、巨人アトラスといえでも、地球をおろしてすごすご立ち去らざるをえなかったというわけでありましょう。
 こうして天動説と地動説が出そろえば、あとは両説の“対等性”の発見が待たれるところまできたわけです。つまり、天動説も地動説も同じ条件で主張されているという“観測条件の対等性”がわかれば、あとは内容的にはアインシュタインの相対運動説も紙一重のところにあるということになりましょう。
 以上のような学問の態度は、人文科学の分野にせよ、自然科学の分野にせよ、先駆者たちには共通したものでありました。この態度こそ、大学で諸君がしっかりと身につけるべき重大要素の一つです。それは、学者になる、ならないの差にはかかわりなく、体得すべき大事な習慣であります。既成の知識と戦っていくところにはほんとうの前向きの“自分自身の学問”があり、この戦いをやめれば知的成長も止まってしまう。実際この態度に立たないかぎり、大学四年間は知恵を開発せずに、たんに先入の知識をかき集めて終ってしまうことにならないでしょうか。
 皆さんは、一世代前までの学生にくらべるとずいぶん恵まれていると思います。と申しますのは、日本の思想界、哲学界というものは、明治以来の成り行き上、ドイツ哲学一辺倒というほど、十九世紀以前のドイツ哲学におおわれてきたのでありまして、ついには「日本はドイツ哲学の世界最大の植民地」とさえいわれるほどだったのであります。
 戦前に文学者の芥川龍之介という人が「人智はギリシャ以来少しも進歩していない」と嘆いたことがありますが、それというのも十九世紀末までのドイツ諸哲学なるものは、その全部が、ギリシャ形而上学存在論の変形にすぎなかったからでありました。形而上学を廃して、批判哲学を説いたカントの学説でも結局はそうだったのであります。
 この十九世紀的な日本思想界の体質は、大学も含めてじつに昭和三十五年ごろまでいっこうに改まらなかったのでありまして、そのころまでの大学生は皆、古い仕方で古い内容の学問を教えこまれてしまった、といっても過言ではないのであります。以来、思想界の体質改善がすすみだしてから十五年、いまでは諸君のほうさえその気になれば、革命された二十世紀のあらゆる学問をぐんぐん吸収できるのであります。
 今世紀に入って三十年ぐらいのあいだに、諸学はいっせいに一大革命を経験し、それにつれて人類の世界観も一変してくるのですが、せっかくのこの大事なことも二度にわたった世界大戦、その他がさまたげになり、思想界への普及が四十年ほども遅れてしまいました。だが現在は、そうした普及の遅れも取り戻されて、いまやわが国の思想界の環境は明るいものになって諸君を待ちうけています。どうか若い新鮮な頭でぐんぐん消化していってください。
 ともあれ、卒業生諸君、本校でのよき思い出を生涯持続してください。そして諸君に続いて、健全なる後輩が年ごとに巣立ちゆくことを確信し、かつは楽しみとしていただきたいと思います。
 あと二十五年の後、二十一世紀の初頭には、一人も欠けずに立派な社会人の姿で学園構内を見学に来てほしいとも思います。
 わが愛するヤングの諸君、諸君に対しまして、私は、心から人生勝利の人であれ、諸君の幸多かれと祈って、お祝いといたします。

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