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日蓮大聖人・池田大作

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日本協会主催レセプション 平等互恵の地球社会を

1975.1.10 「池田大作講演集」第7巻

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4  人類めざすべき方向
 そうした仏法の理念に立脚して、私は人類が究極的にめざすべき新しい方向は、次のようにあるべきだと考えます。
 一つには、二十世紀後半の人類がもたなければならない価値観とは、たんに一つの社会、国家に基盤をおいた狭隘なものではなく、全人類的な視点、全地球的な視野に立ったものでなければならない。
 二つには、人間が生命的存在であるということは、いかなる社会、国家、民族をも越えて普遍的であり、かつ絶対的な事実である。それに対し社会的存在としての人間は、時代、民族、国家の違いによって異なってくる。その意味で人間が真に人間らしく生きるためには、まず自らの原点であるこの生命的存在という大前提を確認し、そこに立脚点をおかなければならない。
 つまり「タテには人間存在の根源である生命的存在に立脚し、現実行動のうえでは、ヨコに、その生命的存在を共通とする地球人類という普遍の連帯をもつこと」こそ現代に必要な視座ではないかと主張したいのです。
 地球人類という普遍の連帯を政治、経済、文化などさまざまな分野で拡大していくことによって、この地球上から一切の戦争を消滅させ、平等互恵の地球社会を築き上げていくことが、私たちの生命的ヒューマニズム運動の大きな目的の一つであります。
 トマス・モアは「戦争は蓄類がするにふさわしい仕事だ。しかもどんな蓄類も人間ほど戦争するものはない」という意味のことをいっております。もはや人間は、合理性をもった蓄類から、真に人間として自立するたしかな道を発見する以外ない。
 いうまでもなく歴史の趨勢は、世界の一体化、世界共同体への道をさし示しています。だが、その半面、偏狭なナショナリズム、人種的、文化的偏見、イデオロギー的対立といったものが、グローバルな運命共同体意識の創造をはばんでいることもたしかです。理想と厳しき現実には、まだ隔たりが存在することは認めなければなりません。
 私が仮称「教育国連」の設置をかねてから提唱しているのも、政治的、経済的分野での国連などの国際機構の充実や国際協力が強力に推進されると同時に、なによりもそれらを底流でささえる“我ら地球人”という意識を深く根づかせるための啓蒙的教育こそが計画され、実施されていかなければならないと深く考えているからであります。そうした意識変革、思想啓発運動は、また創価学会の人間運動とも軌を一にするものであります。
 日本はもとより、世界の諸国家が、この「教育国連」設置への旗手となっていただきたいというのが私の願であり、そのための運動を進めているわけですが、同時に世界の諸国民が二十一世紀の国際社会、きたるべき世紀の地球家族の恒久的な平和と繁栄へ果たすべき責任は、それぞれが人種や民族や国家のワクを越えて、すべての人間に平等に与えられているはずの人格、より本源的には生命の尊厳という人間共通の基盤に立脚して各国民が教育・文化社会をめざすことであると考えております。
 以上のような方向性は、厳しいイデオロギーの対立、国家エゴの渦巻く現実からみるとき、あまりにも理想的すぎるという人もいましょう。しかし、私は、あえてこのインポシブル・ドリームを、私の生あるかぎり追い求めていきたい。所詮、時代をリードし、変革してきた思想というものは、つねに当時の思想的常識を打破し、未来を先取りしているがゆえに、なかなか理解されにくいことも歴史のよく示すところだからであります。
 これからも人類の頭上には幾たびも冬の季節が猛然と襲ってくるでありましょう。人間連帯の平和の拠点を不屈の信念と勇気で築き上げていかなければ、人類の輝かしいあすはありえません。志を同じくするすべての人々と手をとりあで、本年も以上の目的に向かって平和へ果敢なる挑戦をなす一年でありたい――これが現在の偽りない心情なのであります。
 以上、私の所感を述べさせていただきました。ご静聴ありがとうございました。

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