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日蓮大聖人・池田大作

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寂光山妙国寺移転新築落慶入仏法要 「信」という確たる原理

1974.9.1 「池田大作講演集」第7巻

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3  「疑い」と「信」
 ただいま、日達上人猊下御導師のもとに、謹んで大御本尊に勤行・唱題申し上げたのでありますが「日女御前御返事」にこう申しておられます。「日蓮が弟子檀那等・正直捨方便・不受余経一偈と無二に信ずる故によつて・此の御本尊の宝塔の中へ入るべきなり・たのもし・たのもし、如何にも後生をたしなみ給ふべし・たしなみ給ふべし、穴賢・南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤も大切なり、信心の厚薄によるべきなり仏法の根本は信を以て源とす」と。
 しからば、この仏法の根本たる「信」とは何ぞや、と申しますと「疑い無きを信と曰う」とご教示であります。
 では、「疑い」の様相はいかに、となりますと、日寛上人は止観四の三種の疑い「一には自らを疑い、二には師を疑い、三には法を疑ふ」――この「三疑」をあげてお説きになっておられます。
 以下、このことについて、現代風にくだいて申し上げてみたいとぞんじます。
 止観の「三疑」を解説して「弘決四」には次のように述べられております。
 「疑うは過有りと雖も然も須く思擇すべし。自身に於ては決して疑うべからず。師法の二は疑って須く暁むべし。若し疑わずんば或は当に復邪師邪法に雑るべし。故に応に熟疑して善思し之を擇べ。疑いを解の津と為すとは此の謂也。師法已に正ならば依法修行せよ。爾の時は三疑は須く長く捨つべし云云」
 簡単に、省略して解説させていただきますと、最初の「疑うは過有りと雖も然も須く思擇すべし」という一句は、次の三つの疑い全部にかかっているようでありますし、その意味は「疑うという心理作用は、本来は決してよいものではない。しかし、認識の手段として使う場合は、有効な方法ともなるので、よく考えて、よい結論を選び取りなさい」というようなことではないかと考えるのであります。
 第一の自身の疑いは、三惑のうち無明惑から発する疑いであり「自分はとても仏道修行に耐えるような器ではない」とニヒルな自己否定におちいってはならない、という戒めであります。
 幸いに私どもは、広大無辺なる三宝の恩に浴して確信を増して励んでおりますが、このような自己否定的な絶望感は、現代の文明病の最たるものとして大都会を中心に広く人心をんでいる。それが昨今の世相といわざるをえません。
 “生きがいがない”という共通の声は、まさしくこの自身の疑いから発生したものと、私は思うのであります。それであるからこそ、民衆救済の広宣流布の活動が、絶対に必要なのであります。
 次に、第二、第三の「師」「法」に対する二つの疑いは、「法」には、科学、哲学、宗教、仏教にも大小権実さまざまございます。これにともなって、それらを説く「師」もさまざまであります。
 ついては、いずれを選び取るべきか。そのためには、手段として疑ってみ、比べてみ、浅深勝劣をはっきりさせる必要があるというのであります。
 その結果、科学や哲学は知識として有益であるが仏因仏種とは全く別のものであると理解し、明らかになればよいのであります。
 また、諸宗教についても「宗教の五綱」や「五重の相対」等の比較をつうじて、真実の「主師親」、ないし真実の正法は「人法一箇の文底の妙法なり」と判明すればよいのであります。
 こうして誤りない結論が出たならば「三疑」は永久に捨て去って「依法修行」つまり「如説修行」をせよ、というのが、その大意であり、「無疑曰信」とは、以上のような確たる基礎によって立つ信心のことである、と申されているのであります。
 「神力品」の「若しは経巻所住の処……皆応に塔を起てて供養すべし。所以は何ん。当に知るべし。是の処は即ち是れ道場なり」との義にしたがって、本日ここに新生の「寂光山妙国寺」が出現いたしました。まことに立派な道場であります。
 この道場を中心として、首都・大東京の一角たるこの地域において、おおいなる唱題の声が仏事を成し、いちだんと人間革命、社会開発の大業が進んでまいりますよう、かつはまた皆さまのご健勝と、いついつまでも黄金の人生であれ、ということをお祈り申し上げて、お祝いの心とさせていただくしだいであります。本日は大変におめでとうございました。(拍手)

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