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日蓮大聖人・池田大作

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長野県総会 社会の客観的状況は正法興隆を切望

1974.4.26 「池田大作講演集」第7巻

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4  仏法は“実践智”
 さて、この教育機能というものを、こんどはそれを受容する人間としての側からみればどうなるか。それは「実践的哲学者」としての生活を営むことである――といえそうであります。
 これに関して、ある哲学書にこう書いてある。
 「生きているということは、死なないでいることプラス何ものかである。人は何のために生きるか。それが生の目的であり意義である。目的と意義が与えられて、はじめて生は生きるに値するものとなる。(中略)そのためには生の根源に分け入り、生の真実の姿に触れ、生の真相において生き切ることが求められる。生の真実の姿は、日常の生活においては、むしろわれている。いを取除くことは非日常性の現出である。ことによって日常生活は新しく生まれ変わり新しい生命をもつ。哲学の営みは、このような日常性と非日常性との間の往復運動である。人が生きるとは、このような往復運動を繰り返し行なうということであって、それは哲学者の格別の在り方というものではなく、むしろ人間存在にとっての固有の在り方というべきである」というのです。
 これは学者の言葉でありますから、硬くて、やや難解ないい方でありますが、要するに世間の難事(政治、経済その他全部はいる)と取り組んでいく日常性とは、今世かぎりの問題であり、非日常性とは三世永遠に対する反省と自己向上の問題でありますから、人が真に人間らしく生きんがためには、生命の長遠を開き示した仏道修行が絶対に必要だという、裏づけになる考え方であります。
 しかも、そういう往復運動こそ「人間存在にとっての固有の在り方だ」という点に、深く注目していただきたいのであります。
 生活のうえで栄えていこうとする、日常的な努力と生活を通じて悟っていこうとする生涯的な内省求道の努力――それはどちらも欠かせないものでありますから、この二種の努力のあいだの往復運動は、哲学者だけのあり方ではなくて、万人に共通するあり方だというのであります。
 してみれば、じつに私たちのように、仏法実践の基調である信行学という、確たる裏づけをもった生活のあり方こそが、物事をもっともよく処理していく能力としての“実践智”なのであると申しあげたい。
 皆さんは、この教育県・長野の幹部として、どうかますますこの“実践智”を輝かせ、自行においても、他化においても、ぞんぶんにこの人間能力を発揮していかれますよう、心から祈ってやまないものであります。
 古来、洋の東西を問わず、人生の目的、人生の意義、正しい認識にもとづく“実践智”というものを、真剣に探索した智者、賢人は多数おりました。そして、この答えは簡単には得られない性質のものであるために、それを求めるには、世間の雑事から離れて独り思いを秘めて苦闘し、そのために、世捨て人、隠棲者、隠居、出家、変人などが、哲学者の諸形態となったのであります。
 だが、久遠元初の御本仏が末法の世に出現なされて「事の一念三千」の大法則をお与えくださってからは、こういう諸形態での哲学探究は、まったく不要になったのであります。
 ゆえに、私どもは、どこまでも堅実なる社会人、常識人として生きぬきながら、晴れがましき凡夫の座において、最高の精神生活を営んでいくことができるわけなのであります。あわせて、御本仏の大慈悲に絶大なる感謝を捧げつつ、出世のご本意である広宣流布へ、微力を尽くしていかなければならないわけなのであります。
 一人の力は微力といえども、たもちたてまつる妙法は強力なるものである。千人、万人、百万人の団結はさらに強力であります。どうか、この道理をしっかりわきまえて、長野創価学会はいよいよ仲良く団結して、全信州の方々から、心から信頼され、そしてさきほどの伝統文化の祭りにもありましたごとく、香り高い理想的文化県を現出していっていただきたいことを、心から願望するしだいでこざいます。(大拍手)
5  正法興隆の時
 さて、ここで話題を変えて、ひとこと申し上げさせていただきます。
 先日の新聞には「天下大乱」という文字が見えておりました。まさしく今年は経済大乱、物価大乱、または物価狂乱のさなかにありまして、春闘のゼネストも、過去に例をみない大規模のものでありました。ゆえに「大乱」という表現も、あながちオーバーだというわけにはいかないようであります。
 ひるがえって、日蓮大聖人ご在世の文永十一年(一二七四年)には、蒙古第一回来襲という未曾有の「大乱」がおそっております。
 この文永十一年は、日蓮大聖人およびご一門にとって、画期的大転換となった年であります。すなわち、二月には佐渡流罪からご赦免となり、三月二十六日には鎌倉にお帰りになり、そして四月八日には平左衛門尉その他に対して三回目の諫暁をなされ「蒙古の来襲は必ず年内であろう」と予告なされ、しかも容れられずして、ついに五月十二日、鎌倉を出られ身延の山に入られたのであります。
 はたせるかな、十月には元軍が対馬、壱岐に来寇し、十一月に入るや、台風にあって敗退していったのであります。
 このことにつき強仁状御返事では、次のようにお示しであります。
 「就中なかんずく当時我が朝の体為る二難を盛んにす所謂自界叛逆難と他国侵逼難となり、此の大難を以て大蔵経に引き向えて之を見るに定めて国家と仏法との中に大禍有るか……予粗先ず此の子細をかんがうるの間・身命を捨棄し国恩を報ぜんとす、而るに愚人の習い遠きを尊び近きをあなずるか将又多人を信じて一人を捨つるかの故に終に空しく年月を送る」云云。
 かくして、鎌倉幕府はこの文永十一年から、いよいよ“正念場”を迎えたのであります。そして再び、ちょうどそれから七百年を経た今日、わが国は資源輸入国という特異な体質上、輸入、輸出にからんで、大きな正念場にさしかかっております。
 日本の前途は大変な時代の第一歩に入ったわけであります。大乱的様相は、その現れである。いまほど正法興隆が必要な時はないと、私は思うのであります。
 私たち昭和の今日に生きる同志は、はるか七百年前をしのびつつ、大聖人の心を心とし、この激動の社会を、勇気をもって、仲良く団結して開拓してまいりたいと思いますけれども、よろしくお願しいたします。(大拍手)
 そして、陽春のきょう四月二十六日のこの日を「長野の日」と決め、毎年この日を楽しい、そして価値ある地域文化興隆に貢献していく伝統を残していかれますよう、提案申し上げておきたいのであります。(大拍手)
 更に、この一年一年の軌跡を延長して、西暦二〇〇〇年四月二十六日には、きょうお集まりの方方が長生きしていただいて、長野県にとって歴史的な文化祭を、盛大に開催されたならばどうか、ということも申し述べておきたいのであります。(大拍手)
 最後に、この会場提供の体育館当局の方々と設営関係の担当の方々に厚く御礼申し上げ、そして皆さん方の健康といよいよのご清栄とをお祈り申し上げまして、私の話を終わらせていただきます。(大拍手)

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