Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第37回本部総会 永遠に民衆の力で平和をリード

1974.11.17 「池田大作講演集」第7巻

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22  己身のなかに御書を行ぜよ
 日蓮大聖人ご自身は“経文”なかんずく法華経に対していかなる姿勢で臨まれたか。法華経の文々句々に文底仏法の光をあて、その意義を鋭く掘り下げた御義口伝をみれば、よくわかることでありますが、経文の一字一句たりとも、決しておろそかにしてはおられない。
 「一一文文是れ真仏なり」と身をもって迫り、ご自身にとって何を意味するかとの視点から、厳しく対決しておられるのであります。というより、むしろ法華経の一文一句が真実であることを、ご自身の果敢なる実践をもって称名されているのであります。その大聖人の死闘があったればこそ、形骸化し、まさに死滅しようとしていた法華経が不死鳥のごとくよみがえり、時代に生きいきとした脈動を与えることができたのであります。
 私どももまた、末法の経文である日蓮大聖人の御書に取り組む姿勢としては、この大聖人のお姿に深く学べきである。恩師戸田城聖先生は、創価学会の教学の伝統精神を“剣豪の修行”と表現されました。まさしく教学とは、悩み苦しみながら、日蓮大聖人の御書をわが生命に刻み込んでいく戦いであります。教学は決して御書を自身の生命の外において呼んでいくという姿であってはならない。わが己身のなかに御書を行ずべきであります。
 御義口伝にいわく「南無とは梵語なり此には帰命と云う、人法之れ有り人とは釈尊に帰命し奉るなり法とは法華経に帰命し奉るなり」と。我々が「帰命」――命をもって自ら帰すべき対境を示された御文であります。
 根本的には御本尊自体が人法一箇の当体でありますから、三大秘法の御本尊への記名が「人・法」ともの帰命の極理となることは論をまたない。
 しかし、あえて人と法とを分けられた元意にもとづき「人法之れ有り」の意義を考えるならば、まず「法」への帰命とは御本尊への帰命であります。では「人」への帰命とは、今日いかなることを意味するか。もちろん、それは下種の御本仏、末法の主師親への帰命でありますが、その帰命を具体行動にあらわすについては、私は日蓮大聖人の教え、すなわち御書の体得こそが、「御義口伝」にお示しの「人」への帰命にあたると主張したい。それは、御書が日蓮大聖人の御命をつづったものである。すなわち、ご自身の生命に実証された法理を記しとどめられたものであるからであります。
 不滅の哲理をもった人は幸福であります。ひるがえって、今日の世相をみるのに、人々はなんら拠るべきところを知らず、さすらいの日々を贈っているというのが偽らざる実相ではないでしょうか。さすらいの人生には真実の崩れざる幸福の建設はありえない。やがて索漠とした暗いたそがれが、待ち受けているにちがいない。そのなかにあって、黄金のごとく朽ちることのない永遠の真理を刻みこんだ一書を持った我々の存在が、時代におおいなる光をもたらすことは必然の原理であります。
 諸法実相抄にいわく「かにも今度・信心をいたして法華経の行者にてとをり、日蓮が一門となりとをし給うべし、日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか、地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや」と。
 さきに法への帰命、人への帰命ということを申し上げましたが、「法華経の行者にてとをり」がその法への帰命にあたり、「日蓮が一門となりとをし給うべし」が人への帰命と考えられる。すなわち「法華経の行者にてとをり」とは、妙法を根底としての各自の社会での自発能動の実践を貫くことであり、「日蓮が一門となりとをし給うべし」とは、永久に崩れざる異体同心のわが同志の団結であります。その直結の原点が、日蓮大聖人にあることは申し上げるまでもない。
 「日蓮と同意ならば」とは、日蓮大聖人の心、大聖人の精神をわが心、わが根本精神とし、根本の師を大聖人とし、師弟不二の境地に立っていくことであります。そのときには外用の辺においては地涌の菩薩であり、もし外用において地涌の菩薩であるならば、「速成就仏身」、内証においては「釈尊久遠の弟子」すなわち久遠元初の自受用身の本眷属であり、仏界に住する身であるとの仰せであります。
 成仏といっても、彼方にあるのではない。地涌の菩薩としての末法濁世に妙法を弘通していくその実践のなかに、己心の顕現されていくものであります。
23  自らが慈悲の体現者たれ
 地涌の菩薩とは、ひとことでいえば、社会のなかにあって大慈悲の行動を起こしていく人間像をいうのであります。その慈悲のしぶきをわき立たせていく根源力を、南無妙法蓮華経という大生命に求めたのが、日蓮大聖人の仏法であります。
 御義口伝にいわく「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る念は大慈悲の念なり」と。またいわく「涅槃経に云く「一切衆生の異の苦を受くるはことごとく是れ如来一人の苦」と云云、日蓮が云く一切衆生の異の苦を受くるはことごとく是れ日蓮一人の苦なるべし」と。
 これらの御文を思うにつけ、恩師戸田城聖前会長が青年へ指針を示された言葉が思い出される。「衆生を愛さなくてはならぬ戦いである。しかるに、青年は、親をも愛さぬような者も多いのに、どうして他人を愛せようか。その無慈悲の自分を乗り越えて、仏の慈悲の境地を会得する、人間革命の戦いである」と。
 この無慈悲と、私利私欲の邪智におおわれた社会にあって、慈悲の光を投げかけるためには、まず私どもが慈悲の体現者へと人間革命していかなければならない。
 それは民衆とともに歩む不断の自己変革であり、永久革命、永続革命であると、私は申し上げたいのであります。(大拍手)
 終わりに、
  天高く 君の翼に 光ませ
    広布の虹に たどりつくまで
 と詠ませていただき、ともに皆さまの栄光の人生と、幸せに満ちあふれた一家和楽の生活を心からお祈り申し上げて、私の話を終わります。(大拍手)

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