Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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「座談会」について  

1974.1.1 「池田大作講演集」第6巻

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8  座談会の運営と中心者の心構え
 上田 では次に、具体的にいかにすれば充実した、生気はつらつとした座談会が開催されるか、その運営ならびに臨む姿勢等に移りたいと思います。
 会長 座談会は、なんといっても、中心者の一念によって決まる。あらゆる階層の人人の思惑、思念感情が交流しあう場であるだけに、そのさまざまな生命の世界を、いかに誘引し、開示していけるかは、中心となるべき人の、座談会にかける姿勢にかかっているのです。
 八矢 座談会は、中心者がすべてだとは、よくわかるのですが、では、その中心者は、どういう心構えで臨むべきなのでしょうか。
 会長 法華経法師品には「能く竊かに一人の為にも、法華経の、乃至一句を説かん。当に知るべし。是の人は則ち如来の使なり。如来の所遺として如来の事を行ずるなり」とのあまりにも有名な御文があります。
 「能く竊に一人の為にも、法華経の、乃至一句を説かん」――つまり、地道で目立たずに、たとえ一人が相手であったとしても、その人のために全魂を打ち込んで、全力投球で、仏法の話をするならば、ということですね。そうすれば、その人は「如来の使いなり。如来の所遺として如来の事を行ずるなり」で、もったいなくも、仏の使いとして、仏と同じ振る舞いをしたということになるとの仰せである。
 上田 同じ意の文として「諸法実相抄」に「力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」という一説もありますね。
 会長 そう。「力あらば」――これは随力弘通で、人それぞれ違いがあるかもしれないが、おのおのの立場と力量で、全力をあげて、仏法の話をしていきなさい。そうすれば、その人は「如来の使」になる、というのです。
 八矢 非常に申しわけない御文ですね。座談会の中心者が、つね日ごろ、この自覚で、また、この信心の歓喜で、座談会に臨んでいけば、その歓喜の波動が、参加者に伝わっていくのですね。
 会長 ですから、力がないからといって、自信を失う必要もない。要は、きょうも、広布のため、その人のために、仏法伝持のため、座談会で、だれびとでもよい、その人に法を話していける、その生命の歓喜の一念が根本である。
 上田 いま「如来の使」ということがありましたが、座談会の中心者の立場にあてはまると思うのですが、法華経法師品の別の文に次のような箇所があります。
 「是の善男子、善女子は、如来の室に入り、如来の衣を著、如来の座に坐して、爾して乃し四衆の為に広く斯の経を説くべし。如来の室とは一切衆生の中の大慈悲心是れなり、如来の衣とは柔和忍辱の心是れなり。如来の座とは一切法空是れなり。是の安住して、然して後に、不懈怠の心を以って諸の菩薩、及び四衆の為に、広く是の法華経を説くべし」
 この文について、大聖人の「御義口伝」では「衣座室とは法報応の三身なり空仮中の三諦身口意の三業なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は此の三軌を一念に成就するなり、衣とは柔和忍辱の衣・当著忍辱鎧とうじゃくにんにくがい是なり座とは不惜身命の修行なれば空座に居するなり室とは慈悲に住して弘むる故なり母の子を思うが如くなり、あに一念に三軌を具足するに非ずや」と述べられている。
 会長 この「衣座室の三軌」とは、すなわち別しては末法の御本仏日蓮大聖人のお振る舞いであり、総じては、私たちの座談会での方軌でもあるわけです。
 広い、伸びやかな慈悲の生命をもって、どんな批判、中傷、画策があっても仏法への絶対の信に根をおろし、柔軟に、粘り強く、参加者一人ひとりを、大目的、大境涯へ開いていく――ここに、中心者としての、名演奏家のごとき、自在闊達なる会合運営のヒントがあるのではなかろうか。それが、なかなか難しいわけだが。(笑い)
 八矢 やはり成功している座談会をみると、中心者なり、司会者なりの声が弾んだように、生き生きしていますね。それに反し、座の中心にある人が、生気がなかったり、なんとなく疲れているような(笑い)場合は、全体も沈んでしまいますね。
 会長 「声仏事を為す」で、声というものは、その人の、その瞬間、その場の生命の反響です。ですから、話す声にも、しぜんに参加者が勇気のわいてくるような生命の響きがなければなりません。これは、別に大きい声がいいということではなく、静かに話している声のなかにも、さきほどの「柔和忍辱」で、その節々に力強い、心の温かいものがなくてはいけないでしょう。
 上田 そうなれば、寿量品の自我偈に「我此土安穏、天人常充満……衆生所遊楽」とあるような、座談会が明るい、躍動のリズムの会合になるのですね。
 八矢 いまの文の「我此土安穏、天人常充満」というのは、学会の座談会にピッタリですね。暗い社会のなかで、功徳の体験にわく座談会こそ「天人常充満」という姿ではないでしょうか。
 会長 そう。中心者を含めて、皆で力を合わせて、そういう座談会にしたいものだ。一人ひとりが触発しあって、感応の生命流を起こしていく。そのさい「わざわいは口より出でて身をやぶる・さいわいは心よりいでて我をかざる」の文を心していくべきでしょう。
 つまり、話す人が「心よりいでて我をかざる」とあるように、仏法でみがきぬかれた深い人間性が最後はものをいってくる。なんとか全員に信心の悦びを与え、確信と勇気にみなぎる会合にしていこうという一念さえあれば、だれにでも人の胸を打つ話ができるのです。ともかく、具体的にそして自信に満ちて、その人の欲する焦点を語ってあげてもらいたい。
 八矢 反対に、確かに不注意なひとことが同志をキズつけ、座談会を低調なものにしていきますし、逆もいえます。ところで、座談会でなにを話すか、大ブロックやブロックでいつも協議されるのですが……。
 会長 なにも難しい話をする必要はない。信心の横したありのままの人間性でいいのです。
 日興上人の「五人所破抄」には「何ぞ倭国の風俗を蔑如して必ずしも漢家の水露を崇重せん」といわれているが、日蓮大聖人の御書のほとんどは漢文よりも、多くの人々が理解しやすい和文の表現法を用いられている。このことからも明白でしょう。
 上田 それと座談会では皆ができるだけ発言することが理想的だと思います。中心者は特にその点を心がけていきたいと思うのですが……。
 会長 随喜功徳品の文がそのことをいっている。つまり「若し腹人有って講法の処に於いて坐せん。更に人の来ること有らんに、勧めて坐して聴かしめ、若しは座を分かって坐せしめん。是の人の功徳は、身を転じて帝釈の坐処、若しは梵天王の坐処、若しは転輪聖王の所坐の処を得ん」という文です。
 これは勧めて坐して法を聴かしめ、あるいは座を分かって坐る――この座談会における行為の功徳というものが、いかにすごいものであるかを説いている経文です。これは座談会に参加する学会っ子すべてに通じてくる心構えであり、同志の席の譲り合いともとれるだろうね。
 八矢 よくわかりました。それと具体的な問題になりますが、たとえばブロック座談会など、なかなか人がそろわず、開会するにもどうか、という場合があるのですが……。
 会長 それで中心者があわてたりしたら失敗です。事前の準備に十分力を注いでいくことは当然として“三人集まったならば座談会”と決め、御書を読み合うものいい、勤行してもいいでしょう。来た人すべてが“来て良かった”というものを、生命に残してあげるのです。この三人が信心と広布へ同志の絆が深まれば、必ず十人、二十人と転じていくものだ。ともかく、なにがあろうと、すべては勇猛精進です。
 「依義判文抄」の文に次のようにある。
 「問う勇猛精進を題目と為すこと如何。答う本門の題目に即ち二意を具す、所謂信心唱題なり。応に知るべし、勇猛精進は即ち是れ信心唱題の故に本門の題目と為すなり。中に於いて勇猛は是れ信心なり。故に釈に云く『敢で為すを勇と言い、智を竭すを猛と言う』云云。故に勇敢にして信力を励み竭すを勇猛と名づくるなり。精進は即ち是れ唱題の行なり。故に釈に云く『無雑の故に精・無間の故に進』と云云」
 信心というものは敢んでするものであって、消極的な受身の信心はありえません。また「智を竭す」ということが重大な意味をもっている。あらゆる智力をつくしていくことが信心につながるのです。すなわち信心との取り組みにおいては、敢んで、智の限りを尽くしていく態度が必要です。そこにだけ信心が成立しているということだ。これが“勇猛”で“精進”とは余事を交えず絶やすことなく唱題行を持続していくことです。この人のみが、第二章の二年目という、本格的な広布の舞台を担っていける人と確信して、勇猛にして精進に次ぐ精進の黄金道を歩んでいこう。
 上田・八矢 どうもありがとうございました。

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