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日蓮大聖人・池田大作

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関東女子部総会 仲良く協調し求道の人生を

1973.9.24 「池田大作講演集」第6巻

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4  求道の“道”とは
 次に、本日のこの総会では“求道”ということがテーマに掲げられておりますが、この求道の“道”ということについて、若干、話をさせていただきたい。
 この“道”という考え方は、東洋独自のものであるように思われる。ヨーロッパのほうの考え方では「神と、神の子としての人民との間に交わされた契約を守る」という考え方から出発して、契約を成文化したものとしての合理的な法律に違反しないという考え方が、人間行為の基準、すなわち“道”になっております。
 ところが、東洋では、人間行為以前の、もともと自然界にそなわっている性質というものを認めて、それに逆らわず、はみださずにいくのが、人間としてのいちばんよいいき方であるとする。そして、そこに、人間行為の基準をおこうという思想のように考えられる。
 東洋と西洋とを比較してみますと、西洋は人間中心の努力主義であり、東洋は自然中心の協和主義であるという思想の基調に、その差がみられる。
 記録として残っている本からみますと、紀元前六世紀ごろの老子の言といわれるその本に「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず」という言葉があります。こ“道”は“陰陽の調和のとれた自然の胎動”と説明されております。更にこれは、身をもって感ずることはできるが、知性をもって認識することも、解決することもできないというのであります。それゆえ、この老子の究極の
 思想、哲学というものは“無”と名づけておくというのが、老子の学説であります。
 また、儒教では「天の命ずる、之を性と謂い、性に率う、之を道と謂い、道を修むる、之を教と謂う」と解説している。したがって、大自然の性分に合致していける知的ルール(規則)を“道”という。そして、その“道”の修め方を教えるのが学問なのであるという説明をしているのであります。儒教も、そしてまた“無”の哲学である老子の学説も、いずれも一面的には通ずる考え方といえましょう。
 現在、一般に“求道”という場合は、剣道なら剣道、音楽なら音楽、文学なら文学というように、なにごとかの極意を求めて、おおいに努力するという意味で用いられております。
 それでは、妙法をたもった私どもの場合、この“求道”――あるいは、その“道”とは何か。不変真如のうえにおいては、三諦円融の中道という一極の道である。随縁の真如のうえにおいては、事行の妙法を体得し、広宣流布へと修行し、邁進していくことであります。
 この“道”は、すでに七百年前、日蓮大聖人が立派に建設してくださっている。あとは、どこまでも、私どもが求め究めて行くことが、私どもに残された課題であるということであります。
 すなわち「実践」「実証」ということが、皆さん方を含めて、私どもの課題であるということを忘れてはならない。ゆえに私は、ここに掲げられた“求道”の二字はつねに「実践」そして「実証」という、現実問題に即して求めていくところの、信心の道であっていただきたいと思う。個人としては、悩み多き凡夫の自分が、人間革命をしながら、香り高き女性、そして幸せなる女性へと実証していく“求道”であってほしいと、お願いしたい。(拍手)
 長い人生の途中には、いろいろなことがあります。どうも、功徳が止まって、いくら祈っても出てこない、と思うような場合だってあるでしょう。だが、信心さえあれば、その底流のなかで、功徳は伏流として立派に流れていくのであります。たとえば、自分の時計が止まったからといって、時間までも止まってしまったわけではないのであります。それと同じく、表面現象が膠着したときでも、見えない功徳は、流れつづけているのであります。
 そして、そういう見えない功徳は、いずれ表面へわきでてきます。いま幸せそうに見えても、二十年後に不幸では、にもならない。それとは反対に、いま苦境にあったとしても、三十年後に幸せならば、人生の勝利のといえましょう。したがって、川の表面の流れがどうであろうとも、底流の流れがどのようになっているか――それが大切なのであります。それゆえ、信心の世界にあっては“必ずや実証してみせる”という信念だけは、決して失ってはならないのであります。
 女子部全体として、仏道修行、広宣流布という目標にあたっても、月々の目標、年々の目標、そして長期である第二章の目標等々でありましょうが、いずれも“実践そして実証”ということを、第一の優先課題として、団結の力で昇華していけばよいのであります。そこに、しぜんと功徳の底流が流れていく。目標なき空転では、なにもしないことに通ずるといえましょう。
 ともあれ、仲良く、協力していくこと――これがもっとも必要かつ立派な求道のあり方であります。それはまた、もっとも無理のない、人としてのしぜんのあり方でもあります。
 人はつねに、対人関係のなかでだけ生きているものであります。対人関係ぬきの人生とか生活というものは、決してありえない。その人と人との関係は、ケンカするか、仲が悪いか、仲良くするか、更には、互いに離れてしまって眺めあっているか――この三つに大別できましょう。
 このうち、自分自身の内に閉じこもって、眺めあっているだけの三番目は、対人関係としては希薄なために除くとすれば、結局、残されたのは、仲が悪いか、仲良くするか、その二つしかありません。
 悪人や正義の敵とは、戦わざるをえない関係になってしまうのは、これはやむをえない。しかし、私どもは久遠元初以来の同志であり、兄弟であり、姉妹である。ゆえに、学会の人たちは、仲の良い団結が、ふつうの、しぜんの姿であることを忘れてはならない。この仲の良い団結という基調に乱れがないかぎり、実証への求道にも、また狂いを生じることはありません。
 ともかく、人というものは、特に女性においては、自分の生まれつきの弱点は、誇大に気にして、クヨクヨしがちなものである。反対に恵まれた点は、実際よりも大きく恵まれているように錯覚しがちなものであります。学校、家柄、容貎等にこだわるのも、その一つの例で、そうしたことのみを気にしてうんぬんするのは、まことに愚かといわざるをえない。
 仏法の「未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」との原理に照らして、弱点について「未来の果」をよくしたいならば「現在の因」をよくつくるべく、雄々しく朗らかに、人間革命に励んでいくことが、幸福、勝利へのもっとも近道であるということを忘れてはなならない。
 いろいろ恵まれて生まれた人についても同様であります。恵まれて生まれたのは「過去世の因」がよかったのだと、後ろ向きの気持ちが誇っているうちに、その慢心と油断が、今度は「現在の因」となっては「未来の果」が思いやられるようになります。
 最後に自ら所願満足した人が、立派な人生の勝利者なのであります。どうか皆さん方は、そういう気持ちで、唱題の声高らかに、生涯、進んでいってください。関東の女子部の皆さん方が、ますますご多幸でありますように祈り、ともに各方面の発展を心から念じて、私の話を終わらせていただきます。いついつまでもお元気で。(大拍手)

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