Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第1回大阪幹部総会 永久不壊の福運を構築

1973.9.20 「池田大作講演集」第6巻

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3  大事な「心の財」
 さて、いままで申し上げましたように、大阪というところは、昔から財貨に富んだ商人の都市でありました。このことについてひとこと申し上げておきたいと思います。
 日蓮大聖人は、こう仰せである。「蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり、此の御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給うべし」と。これは四条金吾に送られた有名な御書でありますが、この一節こそ未来の原点として、残しておきたいと願うものであります。
 この御金言は、四条金吾が自分の仕えている主家から追放になろうとしたとき、つまり危機に直面したさいのご指導であります。四条金吾は、このご指導を心から受け止めて難と戦った。そして、信心に励んで最後に心境を開いた結果、一転してあの御書に有名なように、領地などが加増されるという福運を得たのでありました。
 ここでもう一つつけ加えて申し上げておきたいことは、開目抄のなかに「今我が疾苦は皆過去に由る今生の修福は報・将来に在り」との一節があることです。いま、仏道修行に励んでいる我々には、当然いろいろな三障四魔にあい、その現象に苦しむ場合がある。この御文の意味は、過去世からのいかなる苦しみがあるにせよ、今生の修福、すなわち福運というものは、必ず将来に開花するというお約束なのであります。それはまた、仏道修行、信心活動、そして広宣流布に向かっている今世の実践の日々に、未来の福運を収めているということであり、それを確信しなさい、との大聖人の仰せなのであります。
 それとともに開目抄の別の個所には「仏と提婆とは身と影とのごとし」とある御文も肝に銘じていただきたい。この意味は、ほんものの人間革命、成仏の道というものには、必ず、なんらかの反作用がある。それが裏表のような関係にあるということなのであります。しかし、こうした相反する関係も、その一つひとつを体験するごとに罪を消し、その修福の功徳というものは、必ず一生涯のみならず、未来に厳然として現れ、子孫末代に伝わるということであります。
 この原理は、更に開目抄の同ページに、「生生にはなれず。聖徳太子と守屋とは蓮華の花菓同時なるがごとし。法華経の行者あらば必ず三類の怨敵あるべし」と述べられていることに通じるわけであります。
 大聖人の仏法の原理は、いつの時代、いずれのところの人に対しても不安であります。いま、四条金吾に結び合わせて私は申し上げましたが、皆さん方にも同じようにあてはまるものであります。
 もしも、人間社会が、物財や経済だけで明け暮れていくならば、人生は、野卑なエネルギーをまき散らして終わるだけでありましょう。物質的な恵みだけでは、雑然としてなんのまとまりもない生涯を送ってしまうことになってしまう。いわゆるエコノミック・アニマルといわれる弊害はここにあるといってよい。これでは、ほんとうに幸せな人生ではなくなってしまいます。そのなによりの証拠は、現代の風潮のなかにある。それは富める国家の裕福な階層のなかかから、続々と社会に背を向けるヒッピーが生まれたことであります。アメリカから始まってヨーロッパでもそうなってきている。
 最近では、わが国でもそれと同類の人たちが、若年層を主体として増えているという事実。それというのも、もとをただしてみると「心の財」よりも「身の財」のほうが優れ、その「身の財」よりも「蔵の財」が優れてしまったところに、どうにもならない現実がある。うつろな世界ができあがってしまったといわざるをえないのであります。
 これは現代の文明悪の所産であると指摘する人は多い。けれども、それをどのように克服して、真実の人間性の再建を行うかということになると、なんともむずかしい問題なのであります。科学者もできない、政治家もできない、もはや教育者にも手に負えなくなってしまったといってよい。だれも解決できなくなってしまった感があり、まさしく二十世紀後半は重大な岐路に立たされているわけであります。
 これをもって考えるならば、日蓮大聖人の教えがいかに卓見であり、間違いないものであるか、そして、現代においてますます必要なものであるかということに気づくのであります。
 このように「心」の問題を論ずると「それは観念論だ」といってすぐ片づけてしまう人たちがいます。しかし、よくみると、そういう人たちが、はたして唯物論に徹底しているかというと、決してそうでもない。漠然としていて、確固たる基準がない、確信がない、信念もない。結局、観念論と唯物論とのあいだで、動揺して迷っているのが真相ではないでしょうか。
 その原因は仏法で説く「色心一如」「依正不二」という広い視野が開けていないからであります。ゆえに私は、東洋仏法の真髄である妙法、すなわち、この宇宙の根源を説き明かした生命哲学こそ「人類要求の第三の道である」と訴えておきたいのであります。この第三の道が即人間主義であり、中道主義の仏法である。これをじつは、全世界の人間の奥底から要求していることを忘れてはならない。ゆえに、私たちは、一念三千の妙法を広めて、現代を啓蒙していかなければならない使命があることを知っていただきたい。
 なんと申しましても大聖人の仰せのごとく「蔵の財よりも身の財」「身の財よりも心の財」が基本である。この「心の財」は妙法蓮華経の御本尊をしっかりと持ちとおしていく信心修行のなかにのみ建設され、発現されていくものであります。
 したがって、信心が豊かになっていけばいくほど、その人の「心の財」も増してまいります。そして、その実り豊かな心が、しぜんに外へ外へとにじみでてくれば「身の財」にもなり、「蔵の財」にもなって永久に栄えていくのであります。もはや、その財は崩れない。私は大阪という経済の都が、こういう確固たる福運の人で満ちみちていくよう、せつに望んでやまないのであります。
4  二十年を目標に進もう
 こうした人間の内面からにじみでてくるような福運は、一朝一夕では身につかぬものであります。長期にわたる忍耐強い、仏道の活躍が必要であります。早い話、さきほどの四条金吾の例をみても、入信二十年以上過ぎてから、やっと難も消え、福運が具わっているようにみられる。子供が一人前になるためにも約二十年かかる。したがって皆さん方も、なにをするにしても二十年が道理でありますから、これを一つの目標として、進んでいただきたいと思います。
 大木になるにも、やはり二十年はかかります。一切仏法は道理であります。考えてみれば大阪方面は、昭和二十七年ごろから、入信者が増えてきたようでありますから、今日、だいだい入信二十年という方々が、人生の総仕上げをしているということになります。したがって、信仰経歴二十年クラスの方々が満ちていくのは、これから十年先であるといってよい。そうした意味からも、今後の十年の将来には、大きな楽しみが待っていると、私は確信しておきたいのであります。
 きょうも、そしてあすも、潔い人間革命の前進として、自分のため、世のため、子供のため、そして妻のため、子孫末代のために、まず第一期を、二十年を目標にして、勇躍、学会活動に励んでいただきたい。
 そうした福運、幸福というものは、その一日一日の信心と生活を大切にしつつ積み重ねていくところから、構築されるということを忘れてはならない。なにかネオンサインが点滅しているような行き方ではほんものにはなりません。「水の信心」といいますように、連続し持続した、たゆみなき信心がまことの信心なのであります。
 人生には、いろいろな苦労が多くつきまとってきますから、連続して、たゆみない精神で信仰するということはなかなか大変なことである。だが、この世に生を受け、人間王者の栄光をつかむ人生観に立つことを決意した我々は、莞爾として難を乗り越え、唱題に唱題を重ねて、この決意を全うしなくてはならない。永遠の生命観に立った次元から考えた場合には、二十年、三十年、五十年は、まだ短時日であることも忘れてはならない。
 日蓮大聖人は「かくれての信あれば・あらはれての徳あるなり」とも仰せられている。一日一日はめだたず隠れているような活動、信心であっても、その実践は、いつの日か必ず徳として顕れる、とのご断言であります。
 私もこれまで、ずいぶん大勢の人を見てまいりました。一生懸命苦労をしてがんばっていながら、なかなか表の舞台に現れないような人もたくさん見てまいりましたが、そうした人たちも、やはり十年、二十年、三十年という信仰歴をへて、見事に光り輝く存在になっている姿に接することもたびたびであります。
 どうか関西の皆さん方は、お互いに励ましあって、更に偉大な関西の人間勝利の金字塔をつくるために、この第二章の先駆を切って立派に戦っていただきたいことを、心からお願いするものであります。(大拍手)
 ともかく、関西が健在であるならば「学会は永遠に健在なり」との自負をもって、また胸を張って、庶民群のなかで悠然と指揮をとっていただきたい。
 ょうは懐かしい大阪へまいりまして、心に浮かぶままに、気軽に所感を申し述べさせていただきました。最後に関西の皆さん方の、ますますの、またよりよき健闘を祝し、発展を心から祈り、
  いざや起て 関西ありて乃 広布かな
 との一句を贈って、私の話を終わらせいただきます。(大拍手)

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