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日蓮大聖人・池田大作

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神奈川県幹部会 仏法の責任感は悟達に直結

1973.9.3 「池田大作講演集」第6巻

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4  真の責任とは
 次に、きょうは、責任とはどういうものをいうのか――ということを、皆さんといっしょに考えたいのであります。
 教育家の阿部能成氏は、こんなことをいっている。
 「奴隷には責任を負おうとしても、負えない。自分の良心に照らしてものをいい、事を行う者にして、初めて責任を負い得ることを考え、責任を負わない道徳的行為も、道徳的言説もないことを、わきまえねばならぬし、責任はいやしくも道徳的根柢にあって変わらぬものであり、これがなくて、いかに道徳的なような顔をして、美辞麗句を並べても、結局は自恣であり、利己的要求すなわち煩悩に過ぎない」というのであります。
 私どもの立場にあてはめれば、一人ひとりに広宣流布の責任というものが、いったい本然的にあるのか、ないのか――という問題であります。
 答えは簡単である。この責任は、信心があればあるし、信心がなければないのであります。もしも、自由なる自発の信心ではなくして、強制されてやるようであるならば、それはもはや、責任を負おうとしても負えるものではありません。自分の心が奴隷根性であるがゆえに――。“自らすすんで信心しているんだ”すなわち“地涌の菩薩なんだ”という自由の自覚のある人だけが、文明人であり責任を感ずる。その現代に生きる社会人――その人だけが、真に広宣流布の責任を担いうる人なのであります。
 ともかく、その証拠として、その人には最極の生きがいがある。また実証が示されている。したがって、責任とは、学会の場合は、かかる崇高なところから発する、名誉のものなのであります。「学会の幹部は、名誉職でなく責任職である」というのは、こういうことなのであります。
 責任職とは、なにか重い精神的な荷を背負って立つものと考えるだけでは、まだ一応の段階であって、考えが浅いのではないかと思われます。さきほどの安倍氏の話のように、奴隷はいくら責任を負いたくとも、負えないのであります。自由人でなければ負えないのであります。
 言い換えてみるならば、信心をして役職にも就き、指導者といわれる立場の人にとって、当人がどれほど広宣流布の責任を感じて立っているかということは、とりもなおさず、その人がどれほど心のなかにおいて、人間としての自由を獲得しているかという物差しなのであります。
 この自由は、仏法においては解脱、悟達に通ずるということになるのであります。すなわち、仏法上の真の責任感は、解脱、悟達の道と直結しているのであります。
 そうでない、世間一般にあるような自由というものは、結局は、単なる利己的要求――煩悩のしからしめるところのものであって、自由を求めて自由に達しえないということで終わってしまうのであります。
 世間では、しばしば、なにかあれば「それはだれそれの責任だ」といって、責任を人に押しつけてしまいがちであります。また「これは私が責任をとる」といって、すぐ辞職してしまうようなこともよくある。そのほうが簡単でありますが、しかし、責任というものの本義からみるならば、それだけでは、まことにおかしいといわざるをえません。
 真の責任は、真の自由とペア(一組み)になっているのであって、真に人間能力が備わらないと、負いたくとも負えないものなのであります。それゆえ、学会の役職、責任職に就くということは、じつに晴れがましいことなのであります。
 「それは君の責任だ」といって、人に責任を押しつける人は、せっかくの貴重な自分の財宝を「さあ、どうぞ持っていってください」といって、押し売りしているようなものなのであります。(笑い)
 そうかといって、こんどは「あれも私の責任、これも私の責任」と、人の罪までかき集めるようであっては、これまた、行き過ぎであることは当然であります。
 社会にあっては,個人の責任だけでなく、政治の次元、経済の次元、指導者の次元等々によって、世の中が悪い場合がたくさんある。こんどは、私どもの近くにあっては、「あの人が夫婦喧嘩をした」「あの人が交通事故を起こした」または「あの人が指導どおりに実践しないで、社会に迷惑をかけるようなことをした」というようなことがあったとする。それは、本人が学会の指導、方針を逸脱してのことでありますから、皆さん方の責任でもなければ、もちろん、学会の責任でもありません。そうでなければ道理に合わず、不合理であります。皆さん方は、どうかそういう点は、伸びのびとして進んでください。
 大切なことは、責任を担って、毅然と立つことのできる、立派な力ある信者、更には社会人となるという一点であります。そういう人が、一人増え、二人増え、千人、万人と増えていったならば、この神奈川の将来は盤石であります。創価学会の前途は洋々と開けていくのであります。信心即責任、責任即解脱という、皆さん方の強い自覚があるならば、妙法はおのずから,世界に広まっていくでありましょう。
 私は、以上の観点から次の諸法実相抄の有名な御文を拝しておきたいと思います。
 「いかにも今度・信心をいたして法華経の行者にてとをり、日蓮が一門となりとをし給うべし、日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか……日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや、剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし、ともかくも法華経に名をたて身をまかせ給うべし……しかしながら我等衆生を仏になさんとの御談合なり」と。
 日蓮大聖人が、私ども凡夫に、成仏の大功徳をお与えくださるための、唯一の直道でもある広宣流布の責任というものを、教えてくださっているのであります。
 かくして、広宣流布に邁進していくならば、神奈川の天地が、どこの地よりも、寂光の都として開けていくでありましょうし、これほど創価学会にとって、また全世界の国々の妙法の友たちにとって、喜ばしいことはありません。幾多の優秀な人材が、まだまだ雲散している神奈川の今後に寄せる期待は、いよいよ大であります。
 これからも、長く険しい広宣流布の旅路を歩むかもしれませんが、きょうお集まりの幹部の皆さん方も、お体を大切にして、仲良く手をたずさえて、助けあい、励ましあい、一層生活を楽しみつつ、元気に、朗らかに、衆生所遊楽の人生を闊歩していっていただきたいことを、お願いしたい。(拍手)
 どうか、お帰りは事故のないように、また設営関係の皆さん方には、暑いなか、なにやかやお世話になり、心から御礼申し上げます。なお最後に、来年九月の佳き日に、再びお目にかかることをお約束しまして、私の話を終わります。(大拍手)

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