Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第15回学生部総会 第三の偉大なる蘇生の道を

1974.3.3 「池田大作講演集」第6巻

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5  自我の拡大と九識
 次に、私どもの伝持する日蓮大聖哲の人間観のうえから「自我の拡大」という問題について、若干ふれておきたい。それは、一つには「心王」と「心数」の関係性であります。「心王」とは、端的にいえば生命の王ということであり、わが生命活動の主軸であり、胸中の王座の謂であります。
 「心数」とは、その活動、働きの側面であり、心王の回転軸があって、生命の作用たる「心数」も、もっともダイナミックな力強い多彩な人間図を展開していけると説いているのであります。
 まず、仏法の視点は、この究極の生命の王座である「心王」の追究に向けられていった。これが有名な天台の「九識論」であります。
 しかし、日蓮大聖人は、端的に「心王の座」をば、わが内なる妙法という実在にあることを明かし、それを「九識心王真如の都」とされ、それは御本尊を信受する胸中の肉団にあると展開されているのであります。
 これが、よくごぞんじの日女御前御返事の一節であります。すなわち「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり」と。
 このことを理解するために、しばらく、古来、哲学界最大の難問とされている「我」という問題と「九識論」に言及しておきたい。
 よく世間で「あの人は我が強い」とか「あの人は我を張る」といって「我」という言葉には、あまりよくない意味の響きがある。しかし、仏法では、以上のような意味の「我」を「小我」ととらて、この「小我」を乗り越えて自らの胸底に果てしなく広がる生命の心海があることを教え、この究極の実在を「大我」もしくは「真我」と呼んでいるのであります。
 人間の「我」という問題に即して考究すれば、仏法の生命論の視座は「小我」の牢獄にとらわれた自我を、いかにして打破し、拡大し「真我」に到達させるかの一点にあるといっても過言ではありません。
 このために展開された一つの哲理が仏法の「九識論」であります。「九識論」は唯識論の流れの精華ともみるべきではありますが、日蓮大聖人の法理、すなわち絶待妙のうえからは、生命の全体像をとらえる一つの哲理として、見事に復活してくるのであります。
 ところで、釈尊をはじめとする仏法の先達が発見した真理の一つは、人間の「我」を表層部の身体から、内面の“心の森林”に分け入り、そのなかでも更に意識から無意識の深層へと、いわば“たて”に降りていくのにしたがって「我」の占める“生命空間”が、しだいに“よこ”に拡大していくということであります。「九識論」も、その真理のうえに展開された精密な人間論であるといってよいと、私は思う。
 まず私たちの色心の表面では、眼、耳、鼻、舌、身の五官にともなう心が働いております。つまり、感覚的意識であり、仏法ではこれを五識と表現しております。
 現代の物質文明は、主として人々の生命の表面に働く本能的な五官の楽しみを刺激しつつ、その王国を築き上げたとみることもできるのであります。これを十界論でいえば、むなしく六道輪廻の人生を徘徊する「我」でもあり、生命空間はかなり狭く、かつ浅くてもろいものといわねばなりません。
 しかし、人間の生命には物事を判断し、推量し、種々に検討する精神活動がそなわっている。一般には、知性、理性にもとづく判断力、推進力、内省力などといわれるものであります。仏法ではこのような心の働きを第六識、すなわち意識といっております。
 人間はこの第六識によって、六道輪廻の境涯から新しい人生、つまりより大きな自我へと跳躍していくことが可能となるのであります。いちだんと上の境涯、すなわち二乗の境涯を望む方向に半歩進むわけであります。
 しかしながら、この努力も六識の奥から突風のごとく吹き上げてくる種々の衝動、情念、欲望、宿命の嵐によって、たやすく崩壊してしまうのがつねであるといってよいでありましょう。
 この六識にとどまるあさはかな「我」は、五識の「我」に比べてその空間は多少拡大しておりますが、しかし、もっと広い六識の奥にある無意識の衝動や情念をもつつみこんだ「我」に比べれば、「小我」にすぎない。
 更に、第六識の奥に分け入り、無意識の領域に進み、そこに見いだしたのが第七識、仏法では末那識と呼びます。これは、思量識ともいい、深い思慮をともなうものであります。世の無常変転のなかに、法則を発見しようとする声聞や縁覚界の人々の自我は、この第七識であるといってよい。
 近代以降の学問や芸術を創り上げた先覚者の仕事は、この第七識のめざめによったと私は考える。すなわち、七識から発動する知性が、真摯な探究心となって社会と歴史と自然界の法則に肉薄していったのであります。
 しかしながら、この七識に位置する二乗の「我」も、エゴに染められた生命内奥の衝動や宿命からは、決して自由ではない。いな、むしろ自己満足という自我の落とし穴の深みにはまりやすい。そして、より大なる自我の拡大から遠のき、かえって無明の闇につつまれて灰身滅智し、自他の生命破壊へと突き進んでいくのがつねなのであります。
 この生命の奥なる宿命やエゴの衝動を克服すべく探究した仏法の直観智は、七識をも貫いて、更に生命奥底への世界を浮かび上がらせていくのであります。
 次の第八識、阿頼耶識は、万物の根源をなす生命に接近し、無限の過去から未来へと生死の流転を織りなしている自我に到達している。そこには、ありとあらゆる生命的存在を支える、強力な内省的求道と慈悲のエネルギーがたたえられている。いわゆる菩薩界の自我であります。しかし、第八識は染浄の二法を含むと仏法では説いている。すなわち、浄法としての慈悲のエネルギーとともに、染法としての生命破壊へのエゴの衝動とが、真正面から拮抗し、それを止揚する術を知らず、念々の内における二者の激闘は、とどまるところをしらない。ゆえに、第八識も確たる生命の「心王の座」ではない。
 仏法の光線は、ついに宇宙の本源の力を融合し、律動する極限の「自我」の大海、すなわち第九識――根本浄識にいたり、これを「心王」と名づけたのであります。
 天台は、この「心王」の存在を内観によって究明していった。それに対し、日蓮大聖人は元初の「心王」をば、わが自在の胸中に悟達し、その境地を万人に開くための確実なる実践法を残されたのであります。これが我らの信仰なのであります。
 しかも、求心的に「心王」に迫ろうとした正法、像法二千年の仏法の営為に対して、「心王」の太陽をわが生命の都にすえて、厳しき現実の怒濤の荒波へと、再び身を投入せしめていく青年の宗教、革命の哲理、世紀の社会運動の思想の原点が、大聖人の仏法なのであります。
 ともあれ「心王」への道は、いまなお迹門の理上の法門であり、「心王」から現実への道程こそ、本門事行の法門なのであります。御義口伝に「心王」を迹門、「心数」を本門に配されているのは、この理由からであります。
 また上野殿後家尼御返事の「心地を九識にもち修行をば六識にせよ」との御金言も、この意味であります。
 すなわち「心地を九識にもち」とは、我々の立場でいうならば、日々の勤行、唱題であります。「修行をば六識にせよ」とは、現実に荒れ狂う六道の苦海のなかで、すすんで自らを鍛練せよ、人をも救え、そこを仏道修行の場としていかねばならない、との仰せであります。
 現実の世界は本能やエゴの濁流が渦巻く波浪であるかもしれない。しかし、我々は夢みる精神の徘徊者であってはならない。九織と六識の絶えざる往復作業のなかにのみ、我らの“人間革命”という明晰なる軌道があるであります。
 ゆえに、朝な夕な“宝鏡”の前にわが「心王の都」を映しだし、あえて現実の激浪のなかにわが青春をささげていただきたいのであります。そして、師子王の宗教を自らの根拠としつつ不撓の意志を貫き、あらゆる分野に自在に乱舞していかれることのみが、私の心からの祈りなのであります。
6  創価学会のプラトンたれ
 次に、皆さん方こそ、わが学会の後継者であるという意味から、ひとことソクラテスとプラトンについてお話ししたい。
 いうまでもなく、ソクラテスは人類史にひときわ高くそびえ立つ、“思想の巨人”である。だが、その思想の巨岩を盤石にし、人類の血液のなかにとどめたのは、その弟子プラトンであった。ソクラテスとプラトンの出会いは、プラトン十八歳ないし二十歳のころであったといわれております。ちょうど諸君の年齢であったわけであります。
 青年プラトンは自ら誇りに燃えてつくりあげた劇詩をもって、詩の競演の会合に出かける途中であった。偶然、ある劇場の前でソクラテスに出会い、彼の話を聞き、巨人の射放つ思想の矢を浴びて、おのれを恥じ、翻然として自作の詩を焼き捨て、弟子となったといわれている。
 それから約十年間、徹底してソクラテスに師事していくのであります。ソクラテスが青年と対話し、歩むところ、つねにその陰にプラトンがあった。その後、ソクラテスが権力の弾圧を受け、苦境に陥ったときも、決してソクラテスから離れることはなかった。裁判の日も、その場所に駆けつけ、自ら罰金刑の保証人になることを申し出たともいわれる。
 ある学者は、こう評価している。
 「プラトンは、ソクラテスの死に至るまで、変わらない弟子であり、親しい友であり、そして彼の死後も、ソクラテスの姿を常に瞼に描きつつ、彼の言行を数多くの対話に記録して後世に伝えたのであった」と。
 ソクラテスは自ら毒をあおいで正義を守り、歴史の最先端に立った。ソクラテスの死は弟子プラトンの壮絶な哲学思索の旅立ちとなったわけであります。プラトンは各地を駆けめぐった。つねにソクラテスの沈黙の声がわが心音と響いてくる。やがて彼は、ソクラテスの思想をまとめ、発展させ、膨大なる哲学体系の山脈を築き上げていくのであります。
 ともあれ、ソクラテスは青年との対話に終始し、その著作は残さなかった。その弟子プラトンが、その思想を後世に伝えたのであります。もし、ソクラテスなくばプラトンはなかったことはいうまでもない。だが、ひるがえって、プラトンなくばソクラテスの存在は、決して時代の血脈とはならなかったであろうことも、明白なのであります。
 この原理は、いかなるい思想流布の場合も共通しております。キリストにパウロ等の弟子が続き、東洋においても、釈迦に十大弟子があり、天台に章安あり、伝教に義真あり、そして末法御本仏日蓮大聖人に日興上人があらわれた。
 すべて後継者のいかんで思潮の興廃は決まるといてよい。諸君は創価学会のプラトンであっていただきたいのであります。妙法という霊妙なる生命の音律によって、触発された新緑の若芽である諸君が大樹と育つのであろうその日こそ――東洋仏法の真髄というべき偉大な思想山脈が、全人類の渇仰の眼前にそびえ立つことを、私は期待したいのであります。
 私は、今月の七日に日本をたって、諸君の代表である原田学生部長らとともに、南米、そして北米の各地に行ってまいります。留守中、国内のことはよろしくお願いいたします。(大拍手)
 世界は、いまや真に人間を究めた無限の光芒を放つ大宗教を求めております。それは、ただたんに、日蓮正宗のメンバーばかりではなく、私の会話した世界的識見の人々も、皆一致して新しき世紀に躍るであろう宗教の必然性を力説しておりました。
 浅学の私が、あえて全世界を駆けめぐるのも、ひとえに学識と英知あふるる皆さんが、必ずや私の意志を継いで、世界を舞台に平和陳列をしいてくれるものと、信ずればこそなのであります。
 ゆえに、諸君は哲理をいだいた“地涌の正統派”として自己をみがきにみがいて、満天の人材のキラ星と光っていただきたいのであります。人類の文化遺産は諸君の胸中に流れていくことでありましょう。そして諸君の胸中の一念から新しい生々たる緑の素膚が広がっていくことも信じたい。
 たとえいまが、寒風にこごえる秋霜の日々であったとしても、尊き珠玉の人間修練の道程と心得て、雀躍として英邁と正義の大地に生きぬいていただきたい。
 この憔悴の時代にあって、やがて心ある人々は二十一世紀の確たる“文化走者”である諸君の存在の大きさを認識し、評価することは決定的であります。
 私も走る。たとえ、それが無償にして犠牲の人間の旅であったとしても、そのために死力を尽くして走りつづけます。
 未来世紀の総体を照らす新たなる光源を、いま私は諸君のまぶしいばかりの歓喜の表情に見いだしている一人でもあります。
 最後に、諸君のご健康と諸君をはぐくんでくださる関係者の方々のご繁栄をお祈りしまして、私の話を終わります。(大拍手)

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