Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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学生部夏季講習会 悩み避けず大道歩もう

1973.7.29 「池田大作講演集」第5巻

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6  我々の運動の方向性
 このことにつながるが「我々の運動は将来どうなるのか」という質問があった。それに対する答えも、いま述べたとおり、おのずから明らかである。つまり、総体革命である以上、まず大前提として社会の各分野で諸君が活躍する必要がある。社会の特定分野や、ある階層のなかへ偏在してしまったならば、総体を揺り動かす原動力にはなりえない。
 線から面へ、面から立体へと広く行き渡ることこそ、まず必要であると思う。そのうえで、行き渡った諸君が、それぞれの舞台でどう働くか、自分の分野で妙法の活力、そして生命力をどこまで発揮できるか、全体としてどう団結の力を発揮していけるか――すべてはそれによって決まるでありましょう。
 すなわち、問題は“どうなるのか”ではなくして、諸君が“どうするか”にかかっていることを熟知していただきたい。実際の革命の実践面は、すべて社会へ展開した諸君の手にゆだねられ、諸君の智恵と情熱とが、局面を左右するのであります。どうか、このことを深く自覚していただきたい。
 「浅きを去つて深きに就くは丈夫の心なり」という有名な一句がある。浅い、深いというのは境智の二法でみれば、境をさしている。丈夫の心とは、我々凡夫においては、信行学である。法華経の迹門の十妙のなかに“境智行位”の四妙があるが、広宣流布によって、よりよき社会をつくりだそうとする我々は、勇気ある信心をもつならば、すべからく他人が困難と感じる分野へも決然と踏みこんで、そこへわが身をおくべきであると、私は思う。
 このことは組織を担当するにあたっても、また将来、諸君が職業を選択するさいにも、通ずる一つの原則ではないかと思う。人生の目的と職業の目的といった問題や信仰と組織と社会の関係というような問題も、浅きを去って深きにつこう、という発心さえあれば、すなわち、この一念の強い姿勢さえあれば、しぜんに実践的に解決してくると訴えたい。
 私の四十五年の人生を振り返ってみても、私は思索や思考にすがりついて、今日まで戦いぬいてきたのでは決してありません。思索や思考も当然必要であったが、より必要であったことは「深きにつこう」「丈夫の心でいこう」という決意のほうであった。わが身を、まずそのようにおき定めることが、万事の原点であると、私は思う。深きにつくということは、人生、社会に対する、そしてまた人々に尽くす偉大な姿勢でもあるし、自分自身の人間革命の原点の思想ともいえる。
 すなわち、そのように「深きにつこう」という“境”があれば、仏法という最高の法がある以上、そこで創造的活力は発揮される。つまり対境との対決において“智”と“行”とを発揮せざるをえなくなるともいえる。御本尊に祈り、しぜんのうちに自分自身の勝利を得たときには、同じく、しぜんのうちに、社会における自分の“位”というものも決まっていくものであります。
 世間一般ならば、まず適当な位を見定めて、それを目標に進むといういき方もあるが、我々はその方法の根底にある名聞名利を目標としているのではない。仏法の教え、正義の行動にしたがい、実践にしたがって、自利、利他のために深きにつき、境智行位の理法にしたがって、わが人生を展開していくのであります。
 俗に“七転び八起き”などといいますが、人生は成功の連続で貫き通せるものでは絶対にない。失敗もあり、転ぶ場合もある。だが、確たる信心さえあれば、立派に変毒為薬できる。失敗で費やしたエネルギーは、次の成功のエネルギーとして必ずや生きてくる。「妙とは蘇生の義」というのは、信心している万人の体験に照らして真実である。若き皆さんは、どうか広く心を開いて、諸君の未来、社会の未来、学会の未来を開拓していただきたい。(大拍手)
7  「総勘文抄」を学ぶ意義
 最後に、この講習会で学習する「総勘文抄」についてひとこと所感を述べてみたい。この御書には、私自身ひじょうに思い出深いものをもっています。それはちょうど、私が諸君ぐらいの年齢のときのことであります。昭和二十六年といえば、恩師戸田先生が第二代会長に就任され、青年部が結成され、折伏の展開が始まった年であります。その二十六年の夏の一夜、戸田前会長のご自宅において、この「総勘文抄」を習った思い出があります。
 メンバーは十人内外であったでしょう。当時の私は佐渡以降の御書のなかでは「総勘文抄」はまことに異色な感じをうけていた。当時は、学会の教学も草創期であったが、戸田先生はなんと思われたか、一、二週間の予告期間をおいて、この「総勘文抄」を教材に取り上げられたのでした。
 講義といっても、全文を逐条的に講義されたのではない。交代で読んで、文段ごとに戸田先生が我々に鋭い質問をされ、メンバーがそれに答えた。皆十分に勉強しておりませんから、緊張して答えた記憶があります。(笑い)
 そして、大事なところについて、所感を戸田先生が述べてくださるという勉強会です。その所感的な講義は、じつに先生の深い体験と、生命の奥深くからしぜんに水が湧きいずるがごとき、明暢な思想に裏づけられておりました。私はそれに接して、いまだに忘れえない大きな感動をおぼえております。
 その講義は、頭に入ったというよりも、心臓へしみ入ってきた、という感じであります。仏法の学問は、このように真髄を授受していくということが、ひじょうに大切ではないか、このことも感じました。
 法華の十妙の一つに、感応妙があげられているが、師弟相対の感応を通じてこそ、信解も知解も成り立つものであると、そのときしみじみ思ったしだいであります。この講習会で「総勘文抄」を学習するにあたって、私の体験を、なんらかの参考にしていただければと思って、申し上げたしだいであります。
 この御書についてひとことつけ加えると、この御抄では三世の諸仏が一致した哲理が展開され、生命の一大革命について宣言されている書であるといえる。歴史的にみるならば、三世の諸仏の一大会議というものがあったわけでも、これからあるわけでもない。しかし、時代を異にして出現される諸仏は、生命の哲理に関しては、一人として、いささかの相異もありえないと示されているのである。
 諸仏の教説が、それぞれいかに特色づけられようとも、そのさし示している内容は、化他方便から自行真実へと向かい、衆生の一念の無明の闇を破って一心法界、心中の常住不変なる総の三諦、つまり衆生法有の妙法蓮華経の開覚をうながし、導き出すものである。この意味において、「総勘文抄」は、まさしく生命革命の御書ともいえるのであります。
 最後、結句の段にいわく「三世の諸仏と一心と和合して妙法蓮華経を修行し障り無く開悟す可し」と。我々はこの一句に万鈞の重みを感じ、生涯肝に銘じて、名誉ある広宣流布の大道を進んでいかなければならないと思うしだいであります。
 終わりに、諸君の限りなき成長とご健康とを祈って、この一時の対話を終わらせていただきます。(大拍手)

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