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日蓮大聖人・池田大作

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岐阜県幹部会 行学兼備の模範の人に

1973.6.7 「池田大作講演集」第5巻

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4  大生命哲学を掲げ実践
 さきほどの御書には「私どもは無始以来、妙法の如意宝珠を持ってはいるが、気がつかないで……」という意味の御文がありました。この「如意宝珠」の宝につきましては、天台大師も摩訶止観において種々に説き明かしておりますが、結論するに、宝とは本有の妙法であり、人間生命のことなのであります。
 現在、生命の尊厳が強く叫ばれてはおりますけれども、現実にはますます生命軽視の風潮のほうが幅をきかせており、どうしようもないほどになってしまっています。交通事故、捨て子、自殺……等等、悲惨なニュースのタネは尽きないほどですし、公害や産業被害に泣く人も多い。生命は外から軽視されるばかりか、人間、社会が自分自身の手によっても生命を粗末に扱う昨今であり、じつに、末法極まれりの感を深くいたします。
 所詮、生命の法理に暗いと、いくら学校教育が普及しようと、また諸学の理論水準が高まろうとも、決して生命軽視の風潮は根絶されるものではありません。このように考えると現代にあっては生命の法理を深く知っていくということが不可欠になります。
 信心とは、結局のところ、生命の内なる法則の確認をすることにほかなりません。どうか皆さん、私どもは色心不二の大生命哲学を掲げて、これからも勇気凛々と、この恐るべき現代の風潮に真っ向から戦いを挑んでいこうではありませんか。
 今年から開始された教学運動には、このような観点からの大きな意義が含まれている。したがって、また私たちには偉大な使命があるということも、深く自覚していただきたいと思います。ところで、私どもの教学運動について注意すべき一つとして、学理の追究のみにおぼれた智者、学匠になるべきではない、ということであります。これは、現在、未来にわたっての学会の重要な問題であります。アメリカの知日学者であるライシャワー氏は、日本人は知識人になればなるほど、住んでいる社会から隔絶していく傾向があると指摘しており、なかなか鋭く日本人の欠点をついております。
 私どもの場合、仏法上の学識が進んだあげくに、不幸な人、悩める人のなかにも入らず、組織活動も逃げて、実践の場から隔絶していったならば、身にそなわった教学も知識も、なにもならないということを知っていただきたいのであります。
 そうした意味で、ライシャワー氏の次の言葉には、味わうべきものがあると思います。
 「実践的かつ現実的でない学者、つまり、現実にあてはまらないような理論を信じる学者は、夢の世界をつくる人間にすぎず、したがって劣悪な学者であります。反面、理想主義者でない政治家や官僚、つまり普遍的な理論や理想でなはなく、日和見主義に基づく政策しか持たない人たちは、経国の士ではありえず、政治の雑役夫にすぎないのです。学者の世界と政治家の世界とのあいだに境界線があってはならないのです」(「日本近代の新しい見方」=講談社刊)
 このなかの「学者」を教学部員に、「政治家」を組織担当の幹部にと、それぞれおきかえてみれば、じつに学ぶべきところの多い主張ではないかと私は思うのであります。教学部員が「夢の世界」をつくる劣悪な学者であった場合には、その人は破和合僧の人になってしまうし、修行、実践なき教学は観念論にすぎず、しかもなんら功徳はないのであります。
 一方、組織担当の幹部も、ろくに仏法哲理をわきまえない、組織活動のただの作業員であってはなりません。そうなってしまったら、目標も失うであろうし、目標を設定したり、見極めることもできなくなってしまうでしょう。
 もしも、教学部員と組織担当の幹部の両者のあいだに境界線があったならば、仏法が宙に浮いてすべての活動が空転してしまいます。その意味において、皆さん方が一人残らず、実践と学問、教学と活動を、ともに立派に推し進めて身につけていく、いわゆる“行学兼備”の模範の幹部に成長していかれますように心から祈ってやみません。(大拍手)
5  自分自身を建設
 このように行・学というものを一体にしていく道は、決してなまやさしいものではありませんが、あえていえば、学会教学は剣豪の修行を思わせるほど厳格に鍛練を重ね、一貫して行・学を一体化させてきたという歴史をもっております。この過程をふみしめて自己を純化し、また純化によって個性を磨き顕して、他のだれびとをもってしても代えがたい自分自身を建設していただきたいのであります。すなわち、そうした自体顕照のなかにこそ真の人間革命が達成されていくのであります。
 妙法に巡り会わずしても、本人が一念発起すれば、驚くべき革命ができるという実例が多々あります。たとえば、ギリシャの哲人ソクラテスはひじょうに容貌が醜かったといわれ、そのうえ夫人も気性の激しい悪妻であったといいますが、学を磨き、心を発達させて、己の悪条件を見事に埋め合わせたのであります。ベートーベンが、耳が悪いという、音楽家として致命的な欠陥にもめげずに、心の耳を研ぎすまして超一流の音楽をこの世に残していることも有名であります。エジソンは、成績が悪くて小学校も中途退学しております。なぜ中途退学したかというと、健忘症だったため、いつも成績がビリであったからです。だが、彼は成長するや世界的な発明王となっているのであります。
 人は成功すれば、必ずもって生まれた才能のせいだと思われがちですが、決してそのようなものではなく、問題は、もって生まれた才能を“磨いた”かどうかの一点に帰着するのであります。まして妙法の世界において大御本尊の功徳をうけ“汝自身”が妙法の当体であるばかりでなく、同志のあたたかい指導、激励に守られながら、なおかつ、それ相応の人間革命ができないわけは断じてないと、私は主張したい。(大拍手)
 惑わずに広宣流布に身を挺して、人間革命が成就しないわけがないと固く信じて、唱題に唱題を重ねていってください。日蓮大聖人は「人身は受けがたし爪の上の土・人身は持ちがたし草の上の露、百二十まで持ちて名を・くたして死せんよりは生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ、中務三郎左衛門尉は主の御ためにも仏法の御ためにも世間の心かりけり・よかりけりと鎌倉の人人の口にうたはれ給へ」と仰せであります。
 私は“学会っ子”である皆さん方が、仏法のためにも世法のためにも、岐阜中の人々から“心根の良い人であった”“親切の人であった”“誠実の人であった”とうたわれるような一人ひとりになっていただきたいとも、心からお願いするしだいであります。
 きょうは、遠路はるばる来られた方が、たくさんいらっしゃると思いますし、会場設営等でご苦労をおかけした方々も大勢おられると思います。そうした方々には、特に厚く感謝申し上げて、私のせめてもの真心とさせていただきます。
 最後に、皆さん方のご健勝とご多幸とをお祈り申し上げ、また、きょう参加されなかった県下の会員の方々へもよろしくご伝言のほどをお願い申し上げまして、私の話を終わります。(大拍手)

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