Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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千葉県幹部会 ”陰徳陽報”を確信し愛郷の人に

1973.3.7 「池田大作講演集」第5巻

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3  信心で矛盾を克服
 我々の人間世界、すなわち仏法で説く娑婆世界は、確かにいろいろなことが起こります。人が集まって住むところ、矛盾がないということは決してない。矛盾はあっちへ姿を現し、こっちへ姿を現し、消えたと思えばまた出てくる。なんとかして人間を困らせてやろうと虎視眈々とねらいを定めて、人を翻弄しようとしてやまない生き物のようなものであります。
 それは、しかも人がこの世で生きていこうとするうえで、どうしても従わざるをえないような奇妙な働きをもっている。不合理であるのに、いや不合理であるがゆえに、人を支配しようとする。そして有形、無形のいずれであれ、我々に迫ってまいります。
 しかし、この矛盾に負けてはならないと、私は申し上げておきたいのであります。これに負けない方法は、一つしかない。それは信心の原点に戻って、冷静に対処するということであります。私たちの小才や小細工でいじりまわすのではなく、題目の力で破っていくことであります。大聖人は次のように仰せであります。
 「一切経の中に此の寿量品ましまさずは天に日月無く国に大王なく山海に玉なく人にたましゐ無からんがごとし、されば寿量品なくしては一切経いたづらごとなるべし、根無き草はひさしからず・みなもとなき河は遠からず親無き子は人に・いやしまる、所詮しょせん寿量品の肝心南無妙法蓮華経こそ十方三世の諸仏の母にて御坐し候へ」と。このなかの「されば寿量品なくしては、一切経いたづらごとなるべし」の一句こそ大事なのであります。
 私どもはさまざまな矛盾に支配されて悩んでいる。そこで、いろいろ分別を立て、道理を考え、人生の指導原理たる一切経にしがみつく。いまでいえば、一切経とはあらゆる学説の総称とみるべきでありましょう。
 それに従い、またはしがみついて、それを武器にして矛盾に立ち向かってみる。それでも、なお矛盾は消滅してくれない。あいかわらず我々を悩ましてくる。なぜか。それは、寿量品なくしては一切経は矛盾に対して無力だからであります。
 一つの具体例として、一見、無神経にみえて、なにがあってもケロリとして、悠々と笑って功徳をうけている人を紹介いたします。皆さん方もたまにそういう方をごぞんじであろうかと思います。
 全国どこにでもそういう人がいることを、私も知っておりますが、あるところに八十過ぎのおばあさんがおります。いまでこそ外出もできなくなりましたが、数年前まではブロックのなかを足まめによく歩きまわっていましたから、なんでもよく知っている。なにがあっても最後はケロッとしている。生まれつきの性分で得をしているのかもしれませんが、題目をよくあげ、物事に動じない人でありました。
 おそらく、その人も矛盾の力の支配はたくさんうけていたかもしれない。損をしていたかもしれない。しかし、信心から発する強靱な精神力で、自分の感情の世界からはその矛盾を締め出しているという、見事な姿を忘れてはならないということであります。
 この人に、一切経やあらゆる学問の分別があるわけではない。それらの浅深も知っているわけではない。いわんや人生の操作、統率の仕方をも知らない人でありますが、たくましい寿量品がある。題目を知っている。鍵を知っている。そこで、このおばあさんこそ強い人だ、立派な人だ、このように私は痛感したものでございます。
 入信は昭和二十九年という信心の長い老婦人であります。そこで、皆さん方もこのおばあさんのようにたくましい寿量品、たくましい題目で、矛盾を全部埋めていける、または、それを乗り越えて人人を引っ張っていける――そういう信心をなさったならばどうでしょうか、と私は申し上げたいのですが、いかがでしょうか。(大拍手)
4  郷土に誇りをもち連帯を拡大
 理想の手前には必ず障害が立ちはだかっているものでありますし、また、そのように一念を決めなくてはいけない。人生、社会はすべて理想、それから障害、それから現実という三つが重なった構造になっている。それが人生であり、社会であります。この障害をたたき壊して進むか、飛び越えていくか、迂回して目標へ行き着くか、それは人により、場合により一律ではないでありましょう。
 しかし、一念発起の信心のまえには、障害は障害でなくなってくるということであります。どうか、おおいに理想を生き、その実現をめざして、公私ともに自分から生きがいをつくって進んでいっていただきたい、と申し上げたいのであります。
 皆さん方は千葉というこの仏法深縁の地で広宣流布に励んでおられる。しかし深縁といっても、法華の血脈を失い、信心の血脈を失ったならば、もはや深縁とはいえない。あくまでも血脈あっての深縁であります。
 では、その血脈とは何か。御書に「久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」とございます。
 ここでいう「九遠実成の釈尊」とは申すまでもなく宗祖日蓮大聖人の御事で、「皆成仏道の法華経」とは総じては日蓮正宗の御本尊、別しては本門戒壇の大御本尊であります。そして、御本尊を無二と信じて唱題に励むろところにだけ、すなわち現実に広宣流布に向かっている人の胸中にのみ、もう一歩せんじつめれば、学会活動をしている人にのみ、法華の血脈が存在していると拝する以外ないのであります。
 この五体に血脈が通った人々だけが、真実の広宣流布の同志であり、そうした人がいてこそ広宣流布の大願もかなうわけであります。ゆえに、御本尊もその血脈の人を大切にするでありましょうし、この法華の血脈の同志のみが、大聖人からの血脈があるということに誇りをもっていただきたい。どうか、血脈の豊かな人間連帯の輪を着実に広げて、郷土の建設を堂々と進めていこうではありませんか。(大拍手)
 中央と違って、地域というものはとかく地味な存在で、なにについても地味な努力の集積が必要になります。しかし陰徳陽報の法理からしても、集積していったこの陰徳が、将来の陽報の爛漫たる成果を約束しているということを、確信していただきたいのであります。
 千葉の人たちの唱題の声はどこよりも力強い、さすがに旭日森で立教開宗された日蓮大聖人の力強さが伝わっている、といわれる皆さん方に成長していただきたい。皆さん方の健康とご一家の繁栄を心からお祈り申し上げ、本日の話とさせていただきます。(大拍手)

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