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日蓮大聖人・池田大作

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第4回壮年部総会 盤石な再構築へ教学を振興

1973.3.6 「池田大作講演集」第5巻

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3  連帯と理解と実践
 次に、連帯と理解と実践について申し上げたい。わが創価学会は、精神的には全員が学会家族であり、またそれが当然なくてはならない。それにともない、各地におけるブロックというものは、それぞれ地域家族とでもいう精神的連帯があるべきものと考えます。
 その手本は、大聖人ご在世において数々拝見することができます。たとえば、四条金吾殿が竜の口にお供申し上げたのもそうであります。日妙という女性が佐渡へはるばるお訪ね申し上げたのもそうであると思います。阿仏房が八十過ぎの老齢を押して身延へもうでたのも、じつにこの精神のゆえでありました。熱原法難のときには弾圧でいられなくなった神主の人を上野殿が引き取って守り、大聖人は、あなたがかくまいきれないときは、身延へよこすようにと申しておられます。佐渡の国府入道殿に対しては、もし蒙古が攻め入ったときは、身延へおいでなさいとも、大聖人は申しておられます。
 所詮、この精神的連帯は、久遠以来の法華の血脈を通していく血管を構成するものであります。かくのごとき連帯がある地域は盤石であります。この連帯の核は、皆さん方壮年でなくてはできない。どうか、毅然として一人立って、地域においてなにものにも揺るがない不動の原点として、機能していただきたいことをお願い申し上げます。
 人は十人十色、百人百色、それぞれみな違っております。この世に対する現れ方からして違い、占めている地位も働きもぜんぶ違う。そして、この無際限な構造世界の歴史を推進しているわけであります。この大局からみたときには、一人として無用な人間や邪魔な人間というものは、絶対にあるはずがないのであります。
 提婆達多でさえ釈尊の善知識であり、平左衛門でさえ大聖人の善知識だったということは、この構造世界内の機能を担っていたからであると、私は考える。いわんや学会のなかにムダな人がいるわけがない。しかし、そうわかってはいても、桜梅桃李――個々の当体そのままに生かしていけるか、いけないかは、おのずと“事”の問題になってくる。
 まず、理解にもとづく誠実な協調が成立していかなければならない。なれあいではなく、協調が必要である。理解とは何か。当然のことではありますが、自分をわかってくれと相手に要求することではありません。それは子供が大人に対してすることであります。
 真の理解とは、自分が相手のなかに入っていって内観視し、他人のもっているいっさいを自分の体験として、同情的に味わってみる作業であると、私は申し上げたい。批判的にながめて、分析してかかる作業ではないということであります。分析批判は客観上の理解であります。それであれば、なるほど相手の姿はよく見える。長所も欠点もよく見える。しかしそれは、相手の人の過去の姿にすぎません。そこには、未来へのよき可能性は開かれてこないのであります。人間は善にも悪にも向かっていく不確定な姿しかないと申し上げたい。
 人と人との接触での対人理解は、客観理解とは違って哲学的実践であり、人生修行であるということであります。それは、相手の不確実、非決定な将来を、内観によって自分と相手を一つの体系として結び、善なる実りとして互いに開示していく作業であります。これは経験豊で、倫理性豊かな壮年部でなければとうていできないことであります。
 人は多様であります。複雑で多様な人々が集まって、学会という集団をつくっておりますから、コミュニケーションというものはなかなか容易ではない。調和をとるのも大変でありましょう。自分の考えを一律に人に押しつけても通らないことがあります。
 そこで、対話がぜひ必要となってくるわけであります。対話を通じて互いに理解しあったときに、はじめて意思が疎通し、共感が生まれ、すべての活動に異体同心の和と力かできてくると思う。各部のあいだにあって、どうか壮年部の方に、これからも大変ご苦労であるとは思いますが、この面にご留意のほどをお願い申し上げます。
 さて、ともかく人間は根源的に実践的な存在であります。生きていくためには働かなければならない。働くとは、知恵の力によって対象と自分とを具体的にしっかりと結びつけ、そのことによって、いまだなかった新しいものをつくりだすということであります。ですから、実践とはいまだ実現されていない成果に向かって、現実を乗り越えていく作業といってもよい。
 この平凡な原理は、我々の組織についてもあてはまると思います。知恵の力でブロック組織と自分をしっかり結びつけて、組織内の対人関係においてつねに新しいもの、建設的な関係をつくりだしていかなかったらば、組織は創造性を失って有害無益な命令機構に変わってしまう。
 世間それ自体が人手不足で忙しいため、みんなこのことはわかってはおりながら、とかく投げやりになりがちな問題であります。そこに一つの危機があります。我々の地域組織も創造機構にするか、命令機構にしてしまうか、その責任を担うのは各部の要である壮年の皆さま方に、どうかお願い申し上げたいのであります。
 公私ともに男の責任というものはずっしりとして重い。女性や若い人かちからは、なかなかわかってもらえないのであります。それも、よく私にはわかります。私もそういう立場でございますが、ひとつ広宣流布のために勇気をもってがんばってください。
 人の経験というものは、万事深刻でありますから、お互いに過去、特に入信以前を振り返ってみれば、人によってはさまざまのことがあったと思う。しかし、大聖人は「末代の悪人等の成仏・不成仏は罪の軽重に依らず但此経の信不信に任す可きのみ」と仰せであります。この仰せに力を得て生命力を燃やしていけば、重い責任も立派に果たしていけると、私は考えるのであります。
 また、大聖人は「其れに付いても法華経の行者は信心に退転無く身に詐親無く・一切法華経に其の身を任せて金言の如く修行せば、慥に後生は申すに及ばず今生も息災延命にして勝妙の大果報を得・広宣流布大願をも成就す可きなり」とも仰せでございます。
 人生は所詮、七十年。我々壮年はその半分以上を過ぎた身であります。あとの人生を空しく過ごして通るにはあまりにももったいない、基調な総仕上げの段階である。御金言のごとくに、だれがなんといおうが仏道修行をつらぬき、勝妙の大果報を、全員がわが身に享受していっていただきたいのであります。がっちりとスクラムを組んで大願成就へ男らしく進んでまいろうではありませんか。皆さん方のご健康とご一家の繁栄を心からお祈り申し上げます。なお、最後に、壮年部全員に代わりまして、わざわざご出席くださいましたご来賓の皆さま方に厚く御礼申し上げ、私の話を終わります。(大拍手)

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