Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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壮年部夏季講習会 健全な色心を確立しよう

1972.8.18 「池田大作講演集」第4巻

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4  自分らしく人生の仕上げを
 次に、仏法は決して犠牲者をつくるものではない。熱原三烈士のような殉教は、その正法守護の精神は、当然いつの世にあっても、根本精神としていかなけらばならない。個人の人間革命も、そうした精神が根底にあってこそ、なされていく。
 だが、もう一面では時代背景を考えなければならない。つまり、熱原三烈士の行動は、大聖人ご在世当時の時代背景、生き方における仏法守護のための行動であった、と考えなければならない。
 当時にあっては、特に殉教は美しく、尊いものとされていた。また強力な幕府権力の弾圧から仏法を守るには、身に寸鉄帯びぬ、なんの力もない庶民としては、殉教以外に方法がなかったとも考えられる。
 しかし、今日においては、信教、言論の自由の時代であるがゆえに、なにがなんでもそうした行動をとらなければ強信ではないとするのは行き過ぎである。
 宗教の目的は何か。それはあくまで人間の幸福のためにある。もし宗教のために、自らの生命を犠牲にするのであれば、またしなければならないのであれば、大胆ないい方になるが、主客転倒といわざるをえない。
 もっとも尊極な生命を自ら断ってしまうようなことは、大聖人の仏法の精神に反するといっても過言ではない。それのみか、殉教してしまったならばだれが仏法を守っていくのか、という令法久住の問題にまで関連してこよう。
 すでに、日蓮大聖人の仏法は、社会に浸透し、その威光を全世界に輝かしている。時代も封建時代や専制時代でなく、民主主義の時代になっている。憲法にも信教の自由は明確にうたわれている。その精神は世界的にも普遍的原理となっている。したがって、皆さんに悠々と日々の生活を楽しみながら、しかし、信心という絆においては団結強く、この美しい和合僧を守り、育てていただきたい。(大拍手)
 ともに、仏法守護、死身弘法は学会精神であることは、当然のことである。ただ、もっとも大事なものは、一人ひとりの生命であるということを第二次的に考えていくならば、それは悪であると強調しておきたい。
 次に信仰したからといって、特別な人間をめざす必要はない。もっとも平凡な人であってよいのである。信仰が進めば、特別な通力があらわれるとか、ずばぬけた力が発揮されるとか、人の何倍も生命力が湧き、なにをやっても平気である、というようなことは決してない。
 同じ平凡な人間でありながら、足りないところを補い合い、助け合いつつ、広布という同じ目的に向かって団結していく。仏法はあくまでも道理である。ゆえに人間らしく、人間の幸福の道を皆で歩んでいく。この美しい、人間的な和合僧団――これが日蓮正宗創価学会の世界である。だからこそ過去の歴史にはなかった新たな歴史が構築れていくのである。ここに大聖人の仏法の真実の姿があるといえよう。一生成仏、所願満足というのは、平凡な人が、常識人が「自分としてはやるべきことはすべてやった」「自分の力はすべて出しきった」――家族のためにも、広宣流布のためにも、自分のなすべき仏道修行においても、こういえる境涯になれば、それは一生成仏であり、所願満足の人生である。
 人生の充実感は、決して物質的な満足感だけで決まるものではない。むしろ、大事なのは、人生の最終地点で、過ぎ去った一生を振り返ったとき、自分はなにも悔いるところはない、ほんとうに自分は自分らしく力を出しきった、といえるかどうかである。
 平凡でありながら、自分らしく、自己の力を最大限に発揮していく。そこに信仰の意義があるし、妙法をたもった人は最高に自身の力を発揮していけることを確信していこう。したがって、自身のためにも、子孫のためにも、生涯不退転を貫き通してほしい。退転した場合は、たとえば電源のスイッチを切ってしまうようなものである。
 生涯不退転を貫き通すことができれば、その人は最高の人生の総仕上げをしたことになり、これ以上の本源的な人間完成の道はない。
 最後に、皆さんがいつまでもお元気で、自らも栄え、ご一家も、子孫末代までも繁栄する信心、希望ある信心、人生であっていただきたいことを、心よりお祈り申し上げ、私の話を終わります。(大拍手)

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