Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第34回本部総会 宗教を交流し人間文化を再建

1971.11.2 「池田大作講演集」第4巻

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18  現代変革の原理
 最後に重ねて御書の一節を拝読したい。上野尼御前御返事にいわく「妙法蓮華経と申すは蓮に譬えられて候、天上には摩訶曼陀羅華・人間には桜の花・此等はめでたき花なれども・此れ等の花をば法華経の譬には仏取り給う事なし、一切の花の中に取分けて此の花を法華経に譬へさせ給う事は其の故候なり、或は前花後菓と申して花はさきあとなり・或は前菓後花と申して菓は前に花は後なり、或は一花多菓・或は多花一菓・或は無花有菓と品品に候へども蓮華と申す花は菓と花と同時なり、一切経の功徳は先に善根を作して後に仏とは成ると説くかかる故に不定なり、法華経と申すは手に取れば其の手やがて仏に成り・口に唱ふれば其の口即仏なり、たとえば天月の東の山の端に出ずれば其の時即水に影の浮かぶが如く・音とひびきとの同時なるが如し」と。
 妙法蓮華経をなぜ蓮華という植物をもって譬えたか。それは、蓮華が花と果実とが同時であり、因果倶時をあらわしているからである、との仰せであります。いうなれば、一切経の功徳というものは、さきに善根をなせば後に仏に成ると説かれているが、これは低い経文の説き方である。法華経に説く仏法の神髄の哲理は、因果倶時であり、それをたもつこと自体、すでに仏の所作である、と述べられているのであります。
 低い哲学、宗教は現実を離れた遠いところに理想を求めようとする。しかし、高度にして力ある哲学、宗教は、御書の「法華経と申しすは手に取れば其の手やがて仏に成り、口に唱ふれば其の口即仏なり」のごとく、この日々月々に振る舞う現実のすがたのなかに、理想の究極が秘められているとするのであります。
 すなわち、虚栄や観念を追うのでもなければ、現実否定の犠牲の哲学でもない。甘美な、幻想の夢にふける陶酔の宗教でもない。この現実を明晰にみつめた英知の哲学であり、人間それ自身の宗教であるということであります。
 哲学の不毛、宗教不信、そして精神の砂漠の現代にあって、再び万人の心を潤し、壮大な民衆文化興隆の発条となっていくものは、この蓮華の哲理、蓮華の宗教しかないのであります。正本堂という仏法史上未曾有の大殿堂の興る時、それは因果倶時で世界に未曾有の人間文化が勃興する時でもあり、またそれを私どもは確信したい。
 来年、一九七二年は、国際化時代の到来、アジアを中核とする新しい動向の時代の開幕等々、さまざまに論じられておりますが、詮ずるところ、国内、国外ともに揺れつづく激動の、原点模索の第一歩の年となるであろうことは間違いない。さまざまな情勢から考えて、確かに厳しい生やさしい時代ではないかもしれません。
 しかし、妙法をたもった私どもにとっては、この一年が将来の不運のコースを未然にとどめるかどうかの試練のときと考えたい。皆さんは、いかなる事態にあっても強固なる信仰と確信をもって、強風も追い風に変えて、社会のなかに燦然と輝く存在であってほしいというのが、私の祈りであります。
 どうか大聖人ご在世中の神四郎兄弟の殉教の精神を胸中深く秘め、しかも信心からほとばしる底ぬけの明るさをもって、ともどもに宗門の繁栄と学会の進展を更にめざされんことをせつにお願い申し上げ、私の話を終わります。

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