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日蓮大聖人・池田大作

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人間と環境の哲学 「東洋学術研究」

1970.10.25 「池田大作講演集」第3巻

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7  現代文明の病ともいうべき“公害”は、自然の破壊と汚染の結果であるが、その解決は、あくまで、人間そのものへの正しい認識から出発しなければならない。これを無視した、環境に対する技術の面だけの処方は、必ず新しい欠陥と病を生ずることになってしまうであろう。つまり、現象面だけの小手先の治療ではなく、文明それ自体の“体質”をつくり直すことから始めなければならない。
 これまでの文明の姿勢を、決定づけてきたものが、きわめて宗教的な信念に裏打ちされたものであったように、この新しき調和の姿勢を決定づけるのも、宗教的な特質をもったものとなろう。人間と自然との調和を主張するルネ・デュポスは、その著「人間であるために」のなかで、次のごとく述べている。
 「我々が心のなかに、人間の目標は自然の征服であり、人間精神の征服であるという考えを持っている間は、世界を変革することはできない。こうした態度を変えることはやさしいことではないだろう。自然の支配と限りない成長とを探究することは、ひじょうに刺激的でほとんど陶酔させるような雰囲気をもたらすのに反し、安定を目指すとほのめかしただけで無関心をうむだけである。このために、新しい社会倫理――ほとんど新しい社会的宗教といってもいいようなものを採用しなければ、われれのやりかた全般をとても変革できない。この宗教がどんなかたちをとろうと、それは支配の野望に駆りたてられているのではなく、自然とも人間とも調和するのにもとづかねばならないだろう」
 彼は、そうした根本的な姿勢の転換を、実現するために、ネオ・ヒポクラテス主義を提唱している。
 すなわち、人間の肉体的、精神的性向に対して、その環境である気候、地形、土壌の構成、水質など、いわゆる「空気と水と土地」が、密接に関係しているとした、古代ギリシャの医聖ヒポクラテスの思想に還れ、というのである。
 また、一切を原子アトムに分析したデモクリトスの考え方から「万物は流転する」と唱えたヘラクレイトスのそれに戻らなければならない、ともいっている。こうした、ヒポクラテスや、ヘラクレイトスの考え方は、いわゆる東洋的な思考法とされて、特に分析的な方法が盛んになった近代科学においては、まったく相容れないものとされたきたのであった。――それが、現代にいたって見直され、更には、東洋の哲学に還り、そこから新しい指導原理を導きだそうという声さえ聞かれるようになっている。
 事実、東洋においては、インドのバラモン哲学にせよ、老荘の思想にせよ、ヒポクラテスや、ヘラクレイトスの思考より、はるかに深く、広大に体系化していると思う。しかも、そのなかで、最高峰をなしているのが、大乗仏教の法理である。と私は思っている。
 人間と環境との関係について、仏法では、依正不二ととらえていく。依正不二とは、依報と正報とが、不可分の一体をなしているということで、正報とは生命主体であり、依報とはその生命体を形成し、その活動を助ける環境世界である。――生命主体とその環境とは、一応、概念として分けられるが、これらは相互に密接に関係しあい、一体をなしているのである。
 これを、更に体系化いた哲理に、一念三千がある。一念三千とは、生命の当体を三千の範疇に分析して論じたもので、仏教の生命哲理の極説とされている。これを詳説することは、煩雑になるので略させていただくが、そのなかに、三世間といって、五陰、衆生、国土があげらている。
 五陰世間とは、個々の生命を、生理的、心理的にみる見方、衆生世間とは、社会科学的な見方といえる。国土世間とは、その生命にとっての、自然環境との関係性の側面といえよう。生命の実像を、このように、国土世間も含んだ一念三千ととらえることは、自然、環境も含めた総体を、生命とみるということにほかならない。
 仏教の思想が、草木や、石ころ、砂の一粒にも仏の生命の実在を認め、一切尊極の当体とする哲学的根拠は、この一念三千の哲理にあるといってよい。仏法の眼からみるならば、この自然の万物の活動それ自体、いな、宇宙それ自体が、妙法の発現であり、仏性の働きなのである。
 環境と調和するということは、環境のなかに自己の主体を滅することではない。調和のなかに真実の主体性を確立していくのでなくてはならない。
 環境と調和しつつ、しかも主体性を確立していくためには、これを支える確固たる哲学的、思想的基盤がなければならないだろう。私は、こうした基盤となりうる哲学、現代人の心をとらえ、未来への力強い前進の指導原理となりうる、ルネ・デュボスのいう“新しい社会的宗教”は、大乗仏教の哲理以外にないであろうと確信している。

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