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日蓮大聖人・池田大作

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高等部全国部員会 強い後継の自覚を

1970.8.4 「池田大作講演集」第3巻

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7  各分野で特性を発揮
 次に申し上げたいことは、高等部はこれまで“勉強第一”を合言葉に進んでまいりました。これは今後とも変わらぬ指針のではありますが、もとより、得手・不得手の個人差があるのは当然であります。したがって、なんらかの点で自分は一番であるというようになっていただきたい。すべての人が勉学の面で一番にならなければならないというようなことはありません。
 英国の首相であったチャーチルもノーベルも、また尾崎咢堂も、少年期に学業成績がふるわなかったことで有名です。だからといって、これらの人々のまねをする必要はありませんが、(笑い)成績が悪いからという理由で萎縮する必要も全くないということです。
 信心をして価値ある青春を謳歌する。そして、おのおのの持ち味を生かし、なんらかの分野で第一人者に育っていく――そのようになっていただきたいのす。
 千日尼御前御返事には「此の経文は一切経に勝れたり地走る者の王たり師子王のごとし・空飛ぶ者の王たり鷲のごとし」とあります。
 羊千匹よりも師子王一匹のほうがはるかに強く、その存在のほうが価値があります。何千人が攻めてこようと、大理論家、大雄弁家が一人いれば、なにものも恐れることがないようなものだ。その反対に、たとえ信心をしているからといっても、羊が千匹集まったような弱々しい姿であっては、それは烏合の衆であり、時代を転換する力とはなりえない。見事に発展したこの高等部のなかから、各分野においてダイヤモンドのごとき存在の、一流の人材が輩出すべき時代になってきたのであります。
 たとえ小人数であっても、そういう各界の第一人者が陸続と育っていくことにより、広宣流布は大きく推進され、多くの同志が守られていくことになるのです。どうか、ひとだひ妙法の徒として生ききっていくからには、草原を走る師子王のごとく、また空飛ぶ王たる鷲のごとく、力ある、悠々たる指導者に成長していってほしいと、念願するものであります。
8  色心とも健全な“全人間”に
 次の申し上げておきたいことは、若くして妙法をたもった諸君は、それ自体、最高に福運ある人々であるということです。福運を確信して進むとき、福運はますます積み重なってくるでありましょう。それが妙法の功力であり、一念三千の理法であります。
 しかし、福運があるからといって温室育ちになり、社会の厳しい実相、懊悩に対して盲目になってはなりません。したがって、つねに目を社会に開き、人々のなかにとけこみ、苦悩解決のため戦うという、正義感にあふれた真実の革命児に育ってほしい。
 経文には「如蓮華在水」とあります。これは地涌の菩薩を賛嘆した文でありますが、これには“出水の義”と“華開の義”とがあります。すなわち、蓮華は泥沼に生ずるが決して泥沼に没するのではなく、必ず水より出でて、大きく清らかな花を咲かせることをいうのです。
 地涌の菩薩とは、妙法の革命児の異名であります。諸君もまた、民衆のなかに生き、社会の泥沼のなかに入って泥沼のなかから育ってくる。そして、そこに花が咲かせていくという方程式を忘れないでいただきたい。
 最後に諸君に要望したいことは、高等部時代に頑強な身体をつくってほしいということであります。どのように優秀な頭脳をもっていても、病弱であれば、広宣流布という激烈な戦いを生きぬくことは不可能である。色心ともに成長する“全人間”であることが大切です。
 四条金吾御返事に「きたはぬ・かねは・さかんなる火に入るればけ候、冰をに入るがごとし、剣なんどは大火に入るれども暫くはとけず是きたへる故なり」とあるとおりであります。いかなる精神的、肉体的苦悩にも打ち勝っていく、また疲れない頑健さをもたなくてはなりません。
 諸君が強靱な身体を築き上げることができるよう、大御本尊に祈りつつ、私の話を終わらせていただきます。

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