Nichiren・Ikeda
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関西センター開館式
第二の十年に厳然たる実証を
1969.11.5 「池田大作講演集」第2巻
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2 次に申し上げたいことは、如説修行抄に「ひとたびは喜び、ひとたびは嘆き」という原理があります。
実生活において、信心しているからといって、ただちに一から百まで願いがかなうというものでもありません。すぐにはかなわないという段階のものは、たくさんあります。子供が学校に行かないので、弱った。お父さんがまた退転した。やれお母さんがなかなか自分の気持ちをわかってくれない。千差万別の悩みが、刻々、瞬間瞬間、生滅しているのが人生です。定規のようなわけにはいかない。いつも動いているのですから、一定の規準で律することができない、どうしようもない場合が多いといえましょう。
故に「ひとたびは嘆き」――子供が学校に行かないなどという場合、それは嘆くのが当然であって、子を思う本当の親の姿ともいえます。次にその嘆きを縁として、どういう智恵を働かせて子供をリードしたらよいかを考えるわけであります。
御書に「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ」とあります。「苦楽」――苦しくとも南無妙法蓮華経、楽しくとも南無妙法蓮華経と唱え、ひとたびは喜び、ひとたびは嘆き、そういうことを繰り返していいのです。
いずれにせよ、南無妙法蓮華経を根幹として、日蓮大聖人の仰せ通りに、純粋に信心をまっすぐに貫き通していけば、最後は全部解決します。必ず福運がつき、なんらかの形でその実証は現われます。御本尊が解決してくれると確信することが信心であります。
だいたい娑婆世界というのは、堪忍の世界といわれているように、誰人たりとも苦しまなければならないのです。苦労の集合体みたいなものです。
朝起きるのがつらい、学校に行くのがおっくうである、仕事が楽しくない、給料が少ない――こうした生活、世界が、妙法力という太陽に照らされたとき、煩悩即菩提の原理の通り、全部幸福の要件に変わっていくのです。それが生命の実体です。南無妙法蓮華経を唱えない人生は、闇であり、砂上の楼閣です。いつ崩れるかわからない。本当の意味の幸福を実感することはできないのです。御本尊を持った以上、たとえ現在がどのような境遇であろうと、幸福境涯に変わっていくことは間違いありません。ある人は悠々と、ある人は無我夢中に、ある人は悩みながら、ある人は忍耐強く、自分らしく進んでいきなさい。全部、御本尊が守ってくださいます。