Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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関西幹部会 第12回中部幹部会

1969.2.10 「池田大作講演集」第1巻

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6  一切の思想・哲学は仏法の序分
 一方、生命の問題に根本的な解決を与えるべき宗教においても同様のことがいえます。
 仏教諸派については、四重興廃、三重秘伝、五重相対等、あらゆる尺度から検討し、日蓮大聖人の仏法を除いては、真実を説いたものがないということはよくおわかりだと思いますから、省略します。
 神が天地を創造したとするキリスト教は、カトリック(旧教)、プロテスタント(新教)、ギリシャ正教等に分かれ、長くヨーロツパ民衆の精神の支えになってきましたが、これらは唯心主義であります。処女や、キリスト復活などの奇跡も、科学の進んでいない古代や中世の無知な人々に対してはともかく、現代人を納得させることはとうていできない。たとえ信じているとしても、それはあくまで観念であり、その人の生命を根本的に救済することは不可能でありましょう。
 中国の儒教も、漢の時代から清末にいたるまで、長く国家の基本理念として尊重されてきたけれども、生命論を説いてはいない。これは、宗教というより、むしろ道徳論であり、道徳は価値判断の反映である故に、時代に応じていくらでも変化するものなのです。したがって、不変の真理ではありえず、近代以後は中国でもかえりみられなくなってきている。
 このほか、ユダヤ教とイスラム教はキリスト教と同じ″一神論″の系列に立つものであり、いずれも生命の本質、因果律を説かない外道です。ヒンズー教は釈尊によって打ち破られたバラモン教の復活にすぎない。チベットのラマ教も、仏教の一派とされていますが、教主を観音の化身であるとする、あいまいな低い教えです。
 しかし、天台や伝教の末法を渇仰する声、かのインドの詩人・タゴールの「私は目を東のほうに向けている。日がすでに夜明けを迎え、アジアの最も東の地平線に太陽が昇つたのではないとだれがいえよう。私は祖先がなしたと同じように、全世界を再び照らすべき運命を担う東洋の夜明けに敬礼する」、アインシュタインの「今日の社会はあまりにも科学が発達しすぎた、今これを使いこなす新しい精神文明が発達しなくてはならない。それを私は東洋に期待する」、サートンの「おそらく偉大な思想は今後もなお、東から我々に達するであろう」等々、全ての思想家、哲学者は、偉大な日蓮大聖人の生命哲学の出現を待ちこがれていたと確信できるのです。
 それ故に、一切の思想・哲学は、大聖人の仏法の偉大さを証明する序分であり、あるいは流通分として、説いていると断定してよい。
 事実、大聖人の仏法哲理、一念三千論からみるならば、フロイトの心理学も、ガモフの宇宙論も、現代において独創的といわれる種々の学説・学問も、全て仏法哲理のなかに、その一部分として包含される。皆さん方は、それほど偉大な妙法をもっているということを知っていただきたい。
7  一念三千は王仏冥合論
 話は変わりますが、一瞬の生命のなかに三千の生命を具するという妙法の一念三千論は、敷延していえば、王仏冥合論となります。すなわち、一念三千を一念一千ずつ立て分ければ、五陰世間とは個人の生命であり、衆生世間とは社会、国土世間とは国土、世界に対応させることができる。信心、実践の立ち場からいうならば、各人が自らを改革しながら、同時に衆生、国土に利益を与えていく偉大な方程式なのです。決して観念論ではない。現実に七百万世帯になんなんとする人々が、喜々として信心に励み功徳をうけているではありませんか。これこそ大聖人の一念一千が、全衆生、日本を救っていく明白な証拠であると思うのです。事の一念三千論の見事なる展開の現証といえましょう。
 これと同じく、大聖人の弟子である私どもの活動、すなわち、折伏によって、自分自身の人間革命を成就し、同時に一人一人に信心の主体性をもたせ、永遠の栄光ある人生の道を開かせるとともに、常寂光の理想社会を建設することができるのです。
 したがって、いわれなき批判や中傷があろうとも、決してくじけてはいけない。十年、二十年、五十年、百年先に、全民衆が創価学会のおかげで幸せになったと心から感謝する時代がくることを深く強く確信し、勇気をもって私とともに進んでいっていただきたい。(大拍手)
 (これは関西・中部両幹部会での指導を整理したものです)

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