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日蓮大聖人・池田大作

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御本尊の力を体得 栃木本部地区部長会

1965.3.14 「会長講演集」第13巻

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3  それから「日々月々に強より給え」――このとおりにいかなければ、大聖人のおおせどおりの境涯には到達できません。また大聖人は勇猛精進とはおおせです。このとおりにいきましょう。(拍手)
 そうすれば、また有名な御書に「法華経を信ずる人は冬のごとし冬は必ず春となる」。大自然の道理を、そのまま、私どもが信心の大功徳をうける道理としてお説きになられている。
 「いまだ昔よりきかず・みず冬の秋とかへれる事を、いまだきかず法華経を信ずる人の凡夫となる事を」法華経を信ずるとは、末法の南無妙法蓮華経の法華経です。すなわち、三大秘法の御本尊です。これを信ずる人が宿命転換できないわけがない。絶対に幸福になるとご断言です。どうか、幸福になってください。(拍手)
 また有名な松野殿御返事には「法師品ほっしほんには「人有りて八十億劫の間・無量の宝を尽して仏を供養し奉らん功徳よりも法華経を説かん僧を供養して後に須臾の間も此の経の法門を聴聞する事あらば・我れ大なる利益功徳を得べしと悦ぶべし」と見えたり」――この法師品の御文は、人が八十億劫という長いあいだ。無量の宝を仏に供養するその功徳よりも、末法において、僧、なすわち大聖人を供養し、須臾の間も此の経の法門を聴聞する。すなわち三大秘法の大御本尊、そして日蓮大聖人の法門を聴聞するその功徳は、その八十億劫のあいだ、無量の宝を仏に供養した人よりも、さらに功徳があるとの意であります。
 三大秘法の大御本尊のことを、聞くだけであっても、それだれの功徳はあるのです。いわんや、皆さん方は、大聖人様の法華経をひろめているのです。大聖人のご遺命を実践しているのです。その功徳はどれほどであるかということを確信していただかたいのです。
 「無智の者は此の経を説く者に使れて功徳をうべし」――われわれは凡夫であり、無智です。「此の経を説く者に使れて功徳をうべし」――これは、とうぜん大聖人のおおせどおりに活動して功徳をうけなさい。すなわち、創価学会は仏意仏勅の団体であります。和合僧即団結をもって、自己の幸福と社会の繁栄のために、仏さまに使われて、活動していけば功徳が湧現することは間違いないのです。
 小さな文、小さな箇所のご聖訓でありますが、また耳にはたびたび聞いていらっしゃる御文であることもとうぜんであります。その一言一句を、自分自身の強い強い生涯の信心の糧にしていただきたい。このために申し上げたのです。
 この御書のとおりにならなかったならば、自分の信心が弱いのです。そうなるでしょう。ならない幹部がいたならば、その幹部は信心がなかったと断定されてもやむをえないのです。この御書のとおりになるわけなのです。御本尊に力がないか、われわれの信心が弱いか、それだけの問題です。
 御本尊様に力があることは、わかるでしょう(拍手)。あとは私どもです。信心には年齢はありません。貴賤貧富の差もありません。おのおのの信心によって、大法王である大聖人の王子ともなるし、反対に、本人の卑しい、弱き信心のために、みすぼらしい自己を見る人生にもなるでしょう。人のことばかりやきもちを焼いたり、虚栄高くなっていかなくてはならない、寂しい人生になる場合もあるでしょう。これもおのおのの信心です。
 どうか私とともに一生涯、明るく、強く、たくましく信心しきっていただきたいと思うのです。(拍手)
 どんなことがあっても、御本尊様を疑わないで、題目をあげきっていきなさい。
 大事なのは、それだけです。人間ですから、宿命的にひじょうに深い罪業があるかもしれない。病気もあるでしょう。交通事故もあるかましれない。だが、ぜんぶ信心があれば本有の妙法に照らされた病気であり、事故であり、死なのです。それは同じ病気であり、同じ事故であり、同じ死であっても、他の病気や事故や死とは、意味が本源的に違うのです。もう救われているのです。
 生命は永遠です。自分自身も絶対に結果として救われていきますし、そしてまた家族に、子孫にその証拠が残っていくものなのです。信心さえあれば、なにも悩むことがないのです。苦しむこともないのです。寂しがることもないのです。信心ほど強いものはない。
 話すことは、いつも同じです。うまいことは話せないし、うまいことを話す必要もないし、皆さん方ひとりこひとりが御本尊の力を体得し、御書のとおり生きて、戦っていただければ、それでいっさいが尽きるのです。

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