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王仏冥合の先駆を 神奈川本部落成入仏式

1965.3.5 「会長講演集」第13巻

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1  たいへんにおめでとうございます。この本部のような近代的なりっぱな建て物を、こんどは皆さん方の一軒一軒が造っていただきたい。いくら本部がりっぱだとほめられても、それだけでは、なんら意味がない。皆さん方の家庭が幸福になるための、その源泉の本部であります。
 信心は強く、明るく、楽しく、自分らしく一生を生き切っていただきたい。あの人はこうの、この人がこうの、人のことをうらやんだり、やきもちを焼いたり、批判をしても自分の財産にはならない。自分らしく題目をあげっきって、“自分こそが日本一の幸福者である”“物心ともにしあわせものである”と証明できるひとりひとりになろうではありませんか。(拍手)
 神奈川も何十万世帯となりました。さきほど柏原副理事長からも話がありましたが、昭和二十五年前後、すなわち、いまから十五年前ごろには、私もこの神奈川方面の学会再建に飛び回ったことがあります。
 なんといっても、神奈川は森田さん一家が、牧口先生当時以来の旗がしらであります。伝統であります。その点については、私も深く敬意を表しています。
 当時、私も約一年、朝な夕な森田さんのおとうさん、むすこさんといっしょに戦いました。したがって神奈川には、私はひじょうに思い出があります。
 たとえていうならば、森田さんの家にもたびたび行きました。ひじょうにおそくなってうちに帰ることもできない。すると、いつも薄ぐらい屋根裏のようなことろへとおされて(笑い)。泊めてもらったことがあります。ふとんもほんとうによぼよぼな、かぜをひきそうなふとんで、夕飯なんかは出してくれません(笑い)。子供が多いせいか、(笑い)貧しかったせいか、また私が礼儀正しく遠慮深いことを知って(笑い)出せば失礼であると思って出さなかったのかもしれない。当時、森田一哉さんは大学を出て、肺病を病みながら、鶴見の市役所へ行っておった。いまはずいぶん太っております。
 また同じく山本さんのうちへも行きました。泊めてもらったこともあります。あのうちも子供が十何人(笑い)。泊まるといっても寝ることろがない。はじのはじのはじのほうに泊めてもらう以外にない。
 それでまたそのお子さん方が、ひじょうに元気で、家の中が外よりよごれている(笑い)。障子なんかは必要ない(笑い)。もしか障子を張ろうとするならば、こわれない(笑い)鉄板なような障子を(笑い)設計してもらう以外に不可能な家である。
 またある時は、いま逗子へ行っておりますけれども、松本さんの家へもたびたび行きました。佐々木庄作さんの家へも行きました。肺病もよくなって、きょうは出てきております。そのように鶴見の再建のために、まだ創価学会が小さくて、バカにされ、誹謗され、足げにされている時分、この人たちはここで戦ったのです。
 いまはこのなかから、神奈川のなかから何人もの市議会議員も、県議会議員も出ている。そしてやがては衆議院議員、参議院議員も出ることでしょう。いま申し上げた人々は、議員ではありません。しかし王仏冥合の先駆として、推薦され立っていく議員の方々は、かつてはこのような人々が戦って、今日の神奈川を築いてきたということを瞬時も忘れてはならない。これを私は、本日のこの落成式に強く訴えるのです。
 またきょうはひさしぶりで、多田省吾君がまいりました。多田君はご存知のように、東北大をりっぱな成績で卒業した秀才です。
 肺病でひじょうにからだが弱かった、いまでは飯もよく食べるけれども(笑い)、二十五貫ぐらいある。戸田先生もかわいがっていた。また私にとっても、かわいい大事な弟子です。信頼しきっておる同志です。
 多田君のことについては、ある人は「なんとなく絵かきの山下清画伯に似ているな」と(笑い)「ひじょうに明るい感じの包容力のある人だ」また一面、ある人いわく「ドゴールのごとく堂々たる人である」こうもいっておる。ぼうようとしておるけれども、測り知れない英知が存在している。闘魂がある。
 私は、彼は将来うんと勉強させ、皆さん方のために尽くさせて、苦労もさせて、一遍でもいいいから、日本の国のために、またいま残念なことにロクな政治家がいないので、世界的な政治家として、大きく活躍させてあげたい。(拍手)
 こう思っておることを申し上げまして、私の祝辞とさせていただきます。おめでとうございました。

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