Nichiren・Ikeda
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信心とは実践なり
静岡本部入仏落成式
1964.9.23 「会長講演集」第12巻
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3 日蓮大聖人様の大願は、全人類を幸福にしてくださる世界の広宣流布であります。それはとうぜんのことであります。また創価学会の目的も、大願も同じく王仏冥合の実現であります。それはそれとしても、おのおのが自分自身の幸福建設をしきれる信心になるならば、それ自身が大願であると私は思います。つうずると確信いたします。そういう決心であるならば、つまらない、小さいひとにとらわれなるようなことはなくなります。
たいへん話が長くなりますが、先月もある雑誌に、あまりにも創価学会の飛躍が早い。「創価学会と公明党」という題で、結論として「やがては宗教独裁、宗教ファッションが考えられるまことに危険である」ということをいっておりますが、小さいときには「なんだあんなりっぱなことをいっていて、正しい信仰だったら、ふえるにきまっているではないか。ふえないのはよくない宗教だからふえないのではないか」と、ついこのあいだまで、いわれてまいりましたが、これだけ民衆が正法にめざめた時には、こんどはその言をひるがえして、暴言を吐いている。的はずれの意見を吐いているのです。
西洋でも、そしてまた、アメリカでも、その根底となる宗教は、どこをとっても、ほぼひとつです。それは欧米にあってはキリスト教です。インドにおいては、ヒンズー教、共産圏においては、共産主義というひとつの“宗教”、ぜんぶ独裁といわざるをえない。宗教ファッショ、宗教独裁といわざるをえないではありませんか。
あまりにも軽率な、軽薄な理論です。やきもちというか無定見というか偏見というか、学者としてあるまじき批判であると、私は結論いたします。最高の哲学に、民衆がめざめて、それに徹していくということは、しぜんの動向です。
ひとつのものにとらわれることが、おおぜいの人がそれに加わるということがファッションであり、独裁であるというならば、民主主義ということ自体が、“民主独裁”ということになってしまう。そんなバカな論理があるわけはないのです。そんなことをいうまえに、評論家が自分自身は批判する本質をきわめないで、かつてきままな人気取りの的はずれの批判をしていること、それ自身が評論家の独裁にすぎない。ファッション的行き方にすぎないと思いますが、皆さんどうでしょうか。(拍手)
民衆の声、民衆の足音ほど強いものはありません。それが民主主義の原理です。
どうか、いっさいのことに、信心根幹として、目を開き、勉強して、この中から、たくさんの各階層の大指導者が出てくださることを心からお祈り申し上げまして、激励のあいさつといたします。おめでとうございました。(大拍手)