Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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社会の大指導者に 関西・御義口伝講義発会式

1964.9.13 「会長講演集」第12巻

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3  また日蓮正宗創価学会の人を見て「疑うことを知らないのか」こういうような評論家があったというのです。それは、もう学会員はしょっちゅう疑ってます。疑っているがゆえに前進があるのです。「大疑は大悟につうずる」ということわざがありますが、大疑というのは、疑いです。大悟は悟りです。御本尊様をいただいた、力があるかないか、事実は疑うところから出発します。
 疑ってはいけないというけれども、皆疑っているのです。それでも御本尊に願うと、生命力がわいた。「なるほと力がある」と確証をにぎるのです。それで、また信心が進みます。また、つぎの疑いを生ずる。しかし御書を拝読する。自分も折伏してみる。そうすると現証がはっきりする。御書どおりになるわけです。他の哲学と相対して、御書に説かれていることは偉大である。また信心が進んでくる。それで、さらに大確信がわいてくるのです。
 煩悩即菩提です。煩悩は疑いです。菩提は悟りです。なにも、学会は疑うことを知らない人間の集まりではありません。一面からいえば、だれびとだって疑う。しかし、その疑いは最高にしあわせになっていくための、媒介の疑いです。
 彼らの仏法の「ぶ」の字も知らないのです。なんとか自分は優秀な評論家として、あの偉大なる創価学会に体当たりして、どうだ、これだけ切ったぞと思いたい。
 あにはからんや、自分の頭のほうを切ったようなもので、なんら効果はないのです。
 真実の宗教、すなわち日蓮大聖人の仏法は、人の魂にあたるものです。また、一家においては、一家に人が住んだようなものなのです。なぜならば、知識は智慧にいたる道程、智慧を根幹として、初めて、いっさいの知識が働くのです。いくらりっぱな体格をしていても、そこに人生の目的、信念等しが確立しておらなかったならば、図体ばかり大きくて動物に等しいのです。いくらりっぱな家があっても、そこに人が住まなければ無価値です。外から見れば「ああずいぶんりっぱな家だな、ていさいがいい」と。だけれども、なんら価値がない。
 また、知識だけであったならば、それはちょうど大工場で機械がたくさん置いてある、博覧会みたいである。どんなものも置いてある。だけれども、それを使う人がなければならないわけです。これは智慧です。それで初めて価値創造になるのです。その源泉は仏法しかない。ですから、ちょうどいまの知識階級や評論家というのは、小さい博覧会、小さい工場、こんなにいっぱい科学的機械があると見せるだけであって、なんらそこで人類の幸福のために、自分の絶対的幸福のために、社会の繁栄のために、どう動かしきっていくかということがないのです。機械をあっちへ持っていったり、こっちへ持っていったり、また博覧会で、どうだこんないい品物があると見せびらかしているとの共通しています。
 諸君は日蓮大聖人の仏法を根幹として、勉強をしっかりやってもらいたい。真剣に学生時代に学業に励んでいただきたい。それをまた将来、大きく生かしてもらいたいのです。この中から何人もの学会の跡継ぎ、そしてまた社会に偉大なる貢献をしていける大指導者が出ていかれんことを、御本尊様にお願いしておきました。しっかりがんばってください。
4  仏法のひとつの方程式からいって、代々の御法主猊下も唯授一人でおひとりと決まっていらっしゃる。また在家の立ち場における創価学会の会長もひとりです。だが、いままでと違った応用ならびに総仕上げの場合においては、ちょうど高杉晋作、久坂玄瑞、品川弥二郎その他、勤皇の志士が、吉田松陰を中心として輩出したのと同じように、師弟不二ですから、私以上の人材がたくさん出て活躍する時代なのです。また、もったいない話ですが、日蓮大聖人様は、日興上人とごいっしょに御本尊様をおしたためであります。また、日蓮大聖人が御書をお書きになって、そのあと、つづきを日興上人がお書きになったものもあります。師弟不二です。
 仏法はいっさいにあてはまるわけですから、創価学会においても、生活面においても、応用できる場合があります。すなわち、私が思っていることは、学会は日蓮大聖人様がお説きになったことの敷衍です。ゆえに牧口先生、戸田先生のご指導、ぜんぶ皆さん方が知っているのです。ですから、私といっしょに、おそわるという立ち場で、勉強すると同時に、いっしょに広宣流布のために、王仏冥合のために、大きく宣揚しきっていただきたい。こうお願いするのです。(大拍手)

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