Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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実践者こそ大信者 長崎会館入仏式

1964.9.12 「会長講演集」第11巻

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3  よく戸田先生は「言論界が学会を批判しているが、言論界の連中が“しまった”といった時が広宣流布である」といわれました。いまの学会に対する批判というものは、的はずれであり、皮相的な批判にすぎません。本質論はなんら解剖していない。学会を批判している何人かの評論家がいますが、私からみれば、小鳥のさえずるようなものにすぎない。
 まったく仏法も知らず、学会の本質をわきまえようとする勇気もなく、やきもちをやき、人気取りのためだけの批判にすぎない。そんなことは、すればするほど、あとになって笑われる。自分が因果の理法で苦しんでいくのです。偉い評論家は、学会の強さを知り、仏法の深さというものを知っていますから、めったに批判なんかしません。
 そういうわけで、そんなことに左顧右眄しないで、絶対に変わらざる大哲学を奉じ、御本尊を根本としていくことです。御本尊を打ち破れずして、学会を批判できないし、また、打ち破ることは絶対にできないのです。強い強い信心を奮い起こして、こんなにも御本尊の功徳はすごいのかということを体得していただきたい。
 よく戸田先生は「あなたがたの功徳は、わしからみれば、鼻クソをまるめたくいのものだ。わしの功徳は公会堂いっぱいぐらいの功徳だ」とこう申されました。なにもはったりや大げさで申しているのではありません。私は、いくぶんなりともわかるような気がいたします。御本尊様も同じ、唱える題目も同じ、題目を唱えて唱えきって、こんなにも偉大な御本尊、こんなにも境涯が開けたか、ありがたいと体験していっていただきたい。
 いままで以上に、いままでもそれは分相応に功徳をうけ、感謝もし、感激をもっていることも、とうぜんであると思いますが、そんなものではない。百倍、千倍、万倍も境涯を開いていただきたい。功徳を積んでいただきたい。それには実践しかない。そうなるわけでしょう。
 こんど新しい本部ができれば、ひじょうに充実した、理想的な本部ができるような気がするのです。幹部もまじめな人でありますし、大きい本部でなくてもいいから、みんなが功徳に浴して、明るい学会員になっていただきたい。
4  また、話は前後しますが、いまの三類の強敵、すなわち俗衆増上慢、道門増上慢、また僣聖増上慢といいます。俗衆増上慢、道門増上慢、これはすでに過ぎ去ってしまったものです。僣聖増上慢については、戸田先生はよく評論家の批評、ならびに国家権力の弾圧であると申されました。しかし、国家権力の弾圧はできっこない。反対に政治屋が、うちの議員におこられているのですから、これはできっこありません。
 評論家がのさばっておりますけれども、これも蚊が鳴くようなものです。日蓮大聖人よりも偉いつもりでいる。釈迦よりも、天台よりも、伝教大師よりも、自分はたいしたものと思い上がっているのです。ほんとうにりっぱな人であり、偉大な評論家であるならば、偉大なものに対しては謙虚さとがあります。増上慢、思いあがり、これが、いまの学会批評の評論家の連中なのです。
 ということは、このあいだ、評論できるときは評論家らしいけれども、できなくなったらもうおしまいではないかといっておりましたが、間違った評論をしたら評論家としての生命を断たれるわけです。実際問題は、二流三流の連中ばかりしかいないのです。“信なき言論は煙のごとし”こんどは諸君が勉強に勉強を重ねて、利害のための評論家でなく、生きた民衆代表の評論家として大きく活躍していただきたい。
 それには、いちばんてっとりばやい行動はなにか。これは折伏です。そしてまた、もういちだん応用して考えるならば、選挙です。議員をたくさん送ることです。
 それ自身が僣聖増上慢を打ち破るもっとも近道であります。戦おうではありませんか。

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