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日蓮大聖人・池田大作

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人生に大事な福運 四国第二本部幹部会

1964.1.17 「会長講演集」第11巻

前後
1  高知の同志の皆さん、たいへんにしばらくでございました。
 皆さん方の元気いっぱいの姿を拝見いたしまして、ひじょうにうれしい思いであります。どうか一生成仏のために、絶対の幸福を確立しきるために、そしてまた、子孫末代までの大福運を回向するために、しっかり私と苦楽をともにして進んでいっていただきたいことを、心からお願い申し上げます。(拍手)
 いままでも、悲しいこと、つらいこと、くやしいこと、いやなことがたくさんあったと思います。日蓮大聖人様は「大御本尊様を受持して、今世における難は、まるで、いちじ雨にぬれているようなものである。それに反し、御本尊様をもたず、そしてまた謗法によって地獄へ落ちたときに、阿鼻叫喚地獄の責めをうけたときに、そのときに悔いても日蓮をうらむなよ」と、あらゆる御書におしたためでございます。
 私どもはだれも信じられない。だが末法の救世主・日蓮大聖人様は仏さまでいらっしゃるのです。大聖人様は、かならず私どもをしあわにしてくださるのです。したがって、一閻浮提総与の御本尊様をお残しくださったわけです。
 「日蓮がたましひすみにそめながして・かきて候ぞ」この御本尊様を信じなさい、絶対に幸福になれる、このように残されたわけです。
 その御本尊様を私どもは受持しています。日蓮正宗のためでもなく、創価学会のためでもなく、私どもが幸福になるために、日蓮大聖人様のおおせだけは絶対に信じきって、幸福の証明をひとりひとりがしきっていこうではありませんか。(拍手)
 いつも私は申し上げることですが、皆さんは「どんな会長なのだろう」と思っていられたことと思います。さきほどから副理事長の方々が、私のことをひじょうにほめてくれました。だが、穴があったらはいりたいというのが私の偽らざる心境なのです。
 岡山駅に降りても、高松の出発のときにも、駅員の人たちが「どれが会長なのだろうなあ」と、辻先生のほうを見たり、北条先生のほうを見て「なんだ、いちばん貧相な、いちばん小さいのが会長なのだなあ」といって、まあ、そういうぐあいで、ひじょうに申しわけない気持ちであります。だが、ひとたび会長となったからには、皆さん方を代表して総本山をお守り申し上げ、令法久住のため、そしてまた皆さん方のために、私は命を捨てている決心でございます。皆さん方は、しっかり信心して、いつまでも長生きして、しあわせになっていただきたい。だれがしあわせにしてくれるか、しょせんは御本尊様しかありえません。これは結論として断言しておきます。(拍手)
 信心をしている皆さん方も、それはおわかりであると思いますが、最高のしあわせになってもらいたい、健康になっていただきたい、金持ちになっていただきたい。高知のはしっこのほうでぐずぐずしていないで、たまには東京の本部のほうへも遊びにきていただきたいし、日本国じゅうの指導にも回っていただきたいし、世界を回って、銀婚式や金婚式の旅行もしていただきたい。そのぐらいの決意と希望とをもって前進していただきたいと思いますけれども、どうでしょうか。(拍手)
 日蓮大聖人様の弟子が卑屈になってはいけません。私は恩師戸田先生のもとに、十九歳で弟子になりました。先生のお供をして、いちばん長い旅行をしたのは、高知の地に十一年前におじゃましたことであります。したがって、高知の地は、私にとってひじょうに印象深い、忘れることのできない歴史的な地です。
 さきほどから話がありましたが、皆さん方の高知の先輩がひとり倒れました。私はひじょうに寂しい思いで、ひじょうに残念です。御本尊様は順・逆ともに救ってくださいます。かならず戻ってくることも確信していますし、そしてまた、いっぺん苦しんで、そして救われるのが妙法の原理です。
 しかし好きこのんで、損をしてまで落ちる必要はないと思ます。皆さん方は、どうか王仏冥合の実現という最高の人生の生きがいのためにも、高知の地の大繁栄のためにも、勇猛心を奮い起こして、弱い、そして学会利用をしていくような、そういう人の屍を乗り越えて、これがほんとうの学会の幹部の姿である、これが真実の日蓮大聖人様の弟子の姿であるということを顕現していただきたいと思うのです。
 もっとも人生にとって大事なことは、福運であります。どんなに努力しても、どんなにあせっても、どうしてもしあわせになれない人がいます。大聖人様は「福智ともに南無妙法蓮華経」(御義口伝792㌻)とおおせです。政治も大事です。科学も大事です。教育も大事です。しかし、もう一歩、本源的な生命の解決の問題、生活の本源の問題を説き明かした、この因果倶時の、本因妙の大哲理、大仏法がもっとも大事なのです、これが日蓮大聖人様の大仏法です。
 福運をつけるということが、どれほど大事であるか、福運がないということが、どれほど不幸であるか、末法今時において、その福運をつけるただ一つの道は、日蓮大聖人様の大仏法しかありません、御本尊様しかありません。したがって、福運をたくさん積みたい人は、毎日毎日、一生懸命やっていただきたいのです。あんまり福運はいらないという人は、ゆっくりやっていただきたいと思うのです。
 私たちは大聖人様のおおせどおりのことしかいえません。それ以外のことをいうのであったら我見です。いくら会長たりとも、自分勝手なことをして、仏法に反するならば大罰をうけます。私が会長となって、妙法に照らされて、皆さん方の指導者として全魂を打ち込んでいくことは、とうぜんの使命なのです。
 また、たくさんの理事の方がいます。みんな私は尊敬し、そしてまた「いっしょに広宣流布をしていきましょう」と、日蓮大聖人様の御書に照らし、そしてまた、恩師戸田先生の指導原理に照らして、前進のコマを進めています。尊敬しあい、頼りあっています。そういう私どもなのです。
 したがって、皆さん方とはなかなかお目にかかることはできませんが、いちおう私が会長です。弱い、いくじのない会長ですまないと思いますが、私は皆さん方のメッセンジャー・ボーイとして、これからも戦いますから、皆さん方は今度は私に声援をしてください。
 それで、なかなかこられませんもので、この地には学会の一級闘士を、私の代理として、今後もたびたび派遣いたしますから、それでいいでしょう。(拍手)
 最後に、たびたび話すことなのですが、私が入信した当時、もっとも胸を打たれたことは、私は青年ですから、からだが弱かったのですけれども「信仰などというものは絶対する必要はない、信心はしまい」こういう考えでありました。だが戸田先生にお目にかかりまして、そのときに、静かに先生は次のような意味のことを申されました。それは、一つには「これから長い人生である。どういう宿命が待ち構えているかもしれない。いつどのようになるかもしれない。君は一生涯、ゆうゆうと人生を生きていく信念があるのか」と。
 それは私も、そのときぶつぶついろいろなことをいったことを覚えております。
 だがそのとき、私の心のなかにはなにもありません。観念的には、やれ社会主義だ、やれニーチェだ、やれマルクスだ、やれエマーソンだといえるわけです。しかし、なんらそれが私の人生の一生涯のバックボーンではないわけです。
 また、先生は「もしか老いたときに、振り返って、どれだけ自分が有意義な人生を生きたか、価値ある人生を生きたか、そのときに悔いても、もうおそいではないか。一瞬のうちに老人になってしまうよ」と。「ウソであるか、ほんとうであるか、日蓮大聖人様の仏法を勉強し、実践してみなさい」と、このようにもいわれました。
 また「死ぬという問題にたちいたった場合、ゆうゆうと死んでいけるか」と、そこまできますと「なるほど、なにか青年時代から持たなくてはならないな」と、このように私は深く感じました。「そういういっさいの人生航路、生命航路の現実はきびしい。それを打開していく根本であるがゆえに大聖人様の仏法を勉強してごらん、実践してごらん。もしもウソであったならば、戸田の首をあげよう。いつでもやめたまえ、一銭も払うわけではないし、君のためであって、なんら、学会のためではないのだから」と指導をうけました。
 いまのように、創価学会は会員も大勢いないのです。青年はその当時九人ぐらいしかいない。それで弾圧に弾圧をされていた時代であります。私は「よし、三年でも五年でも、この先生がいわれることであったならばやってみよう。徹底して勉強もしてみよう」と決意し、それから御本尊様をいただき、勉強してまいりました。
 私は、絶対に、日蓮大聖人様の仏法は世界最高である、絶対に証拠が出ると確信しており、このことだけは絶叫しておきます。どんな哲学と比べて論じようが、いかなる思想と比較して論じようが、世界最高であることだけは、絶対に間違いございません。皆さん方も、自分のためですから、しっかり勉強していただきたいと思います。実践もしていただきたいと思います。(拍手)
 どんな優秀な自動車を買ったとしても、運転しなければ価値がありません。どんないいテレビを買っても、またはラジオを買っても、スイッチを入れなければ、関係を結ばなければ価値は生じません。
 同じように、御本尊様をいただいても、実践をしなければ、関係を結んでみなければ、結果が出ないことは道理です。
 大聖人様は「信心強きを名づけて仏界となす」このようにおおせです。仏、仏といっても、信心が強盛であることが仏なのです。なにもりっぱそうになるのではない。顔形が変わるのでもない。
 その方程式からいいますと、地獄は地獄界、これは「苦しみ強きを名づけて地獄界となす」となります。十界は地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天、声聞、縁覚、菩薩、そして仏界と生命の基本です。
 また十界互弘論が大聖人様の仏法でありますが、その十界の生命活動、そのなかで、今度はケンカばかりしている人の生命活動は「怒り強きを名づけて修羅界となす」と。勉強を一生懸命やっている人の生命は「一生懸命勉強することを名づけて声聞界となす」と同じように、信心が強いがゆえに大福運を積めるのです。願いがかなう、これしかありません。
 したがって、信心が強いとはなにか、大聖人様のおおせどおりに題目をしっかりあげることです。これが根本です。あとは随力演説です。自分の境遇、自分の立ち場で楽しく、そしてまた自分のためにも、慈悲をもって折伏することです。折伏といえば創価学会がつくったのかといわれますけれども、日蓮大聖人様がおおせになっているのです。なにも折伏は、ケンカ腰でやるのでもありません。おだやかに、
 じゅんじゅんと真心をこめて話すことが折伏であり、大聖人様のおおせどおりの行為になるのです。
 あとは生活のうえで、しっかり生命力をつけ、生命を浄化し、知恵を働かせ、たくさん価値創造して、これ以上楽しい生活はない、これ以上楽しい一家はありえない、こうなったときが、私はりっぱな強盛なる信心であると申し上げたいのです。
 仏法はけっして遠くにあるものでもありません。近くにあります。一日一日、瞬間瞬間のなかにあります。「一切法是れ仏法」です。どうか御本尊様をだきしめて「幸福になるために題目をあげよう」「土佐の人々のために折伏をしよう」「一家のために仏道修行をしよう」このような心豊かな信心をしていかれんことを、心からお祈り申し上げまして、私の激励とさせていただきます。

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