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日蓮大聖人・池田大作

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「関目抄」の精神継ごう 東北第二・第三本部結成大会

1963.10.4 「会長講演集」第10巻

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5  どうしても、われわれは疑いっぽい。根性曲がりです。ここにはいないかもしれませんけれども、ずいぶん批判したり「そんなこといったって」と思う人もいるかもしれませんが、日蓮大聖人様のおおせは間違いありません。けれども疑う人があるならば、だまされたという気持ちで、大聖人様にだまされれば、べつにどういうことはないでしょう。御本尊様にだまされた、大聖人様にだまされた。だが、せめてきょうから一年間だけでもいいです。いわれたとおりに実践しきってみたらどうかと思うのであります。(拍手)
 また、そういう悪い根性でない人もたくさんいると思いますけれども、きょうから一年間、私もその決意でいきますが、もう一段と、発心して、信心強盛になって、来年の十月を目標にして、どれだけ自分が成長できるか、どれだけ自分が宿命転換できるか、どれだけ境涯を開くことができた。それは信心は一生でありますが、その一歩として、きょうから一年間、ともどもにがんばりきってみようではありませんか。(拍手)
 一年間の成長によって大功徳を受け、大幹部になった人もたくさんおります。反対に九仭の功を一簣に虧いて、たった一年間の信心の堕落でこじきのような生活をして、いま悔んでいる人も何人か見ております。一年間という土台は、ひじょうに大事であると思います。
 また、もうすでに話はあったとは思いますが、新潟と聞けば、なんといっても日蓮大聖人様のご苦難を思い出します。上行菩薩出現の予言書・法華経観持品における「数数見擯出」について「数数とは度度なり」とおおせであります。その当時、大聖人様は伊東、そして佐渡の流難と、二回のご流難がございました。その佐渡ご流難のときの御書はたくさんございます。観心本尊抄、開目抄、諸法実相抄等、大事な大事な御書をおしたためでございました。
 そのなかに開目抄があります。これは大聖人様が末法の御本仏であるというご宣言書と拝する御書でございます。その御書のなかに、有名な「智者に我義やぶられずば用いじとなり……乃至ちかいし願やぶるべからず」とあります。「智者に我義」――大聖人様の義とは、すなわち色心不二の大哲理です。永遠の生命の本源をあかした、生命の本体をあかした、幸福になりきれる源泉、原理を明かした大哲理であります。マルクスの哲学であるとか、キリストの哲学であるとか、実存哲学であるとか、いわんや過去のソクラテスやアリストテレスや、そういう低い低い哲学ではありません。
 この日蓮大聖人様の哲学の究極である三大秘法の御本尊をやぶられるということが、それ以上の力のある思想、哲学が出るということが、大聖人様にとって大難であります。したがって「智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし」佐渡へ流されたとか、または伊東へ流されたとか、悪口罵詈されたとか、そんなことは大難のなかにはいらない、風の前の塵のようなものであります。そして最後に「ちかいし願やぶるべからず」大聖人様のこの大生命哲学、即三大秘法の御本尊は、永久にやぶることはできないのだと、ご決定あそばされているのであります。(拍手)
6  したがって、末法の衆生を、全人類を平和にさせてあげたい、ひとりももれなく幸福にさせてあげたいという大聖人様の大慈悲に、この三大秘法の御本尊を残すために、この大難をしのんであげているのです。これが大聖人様のご精神であると拝します。
 いま大聖人様の、その大精神をそのまままっすぐに受け継ぎ、まっすぐに実践しきっているのは、日蓮正宗創価学会しか断じてないと私はいいきっておきます。(拍手)たくさんの、南無妙法蓮華経を唱える教団もあり、唱える人もあり、新興宗教もあります。しかし彼らは法盗人であります。大聖人様の法を盗んで金をもうけ、大聖人様に弓を引き、そしてまた人々を悪道に落としてきております。
 私どもは、あくまでも日蓮大聖人様の正統なのであります。私どもが立ち上がらなかったならば、大聖人様の仏法は濁ってしまいます。まっすぐにひろがっていかてい。すなわち広宣流布はできないとの、強い強い自覚と誇りと勇気をもって実践し、そして大聖人様が、親が、師匠が、主人が、仕えている私ども弟子を、子供を守ってくださらないわけは断じてないという強い強い信念で進んでいこうではありませんか。(拍手)
 どうか、第一本部、そして第三本部まで含めて、きょうは集合になったと思いますけれども総じて、東北の皆さん方のいよいよ信心強盛なる前進と、ご健闘とご健康を心から祈りまして、私の激励といたします。ご苦労さまでした。(拍手)

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