Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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不退転が学会精神 中部第一本部地区部長会

1963.7.17 「会長講演集」第9巻

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4  そういう信心に立ったときに、一生成仏は間違いありません。生きていくそれ自体が楽しくて楽しくてたまらないし、仏の命が湧現してくるのです。どんな人生もぜんぶゆうゆうと勝ちきっていけます。楽しい有意義な人生航路を生きていけます。かく私は確信するしだいなのであります。
 その人こそが仏なのです。また真実の仏の使いであり、もったいなくも日蓮大聖人様の御命が躍動してくるのです。本地がわいてくるのです。それであるのに、やれ「寂しくなった、去ろうか」とか、すぐ感情的になって批判し、それが正しい批判であり建設的な批判であるなら、いくらしてもかまいません。どうしょうかああしょうかと心が動いている、そのきびしい一念が自分自身を楽しませもし、寂しくもするし、大功徳とも分かれていくし、功徳を受けきっていくし、罰のほうへももっていくというように、一心の妙用、一念三千の、それが原理なのです。どんなテレビでも、どんな写真機でもラジオでも、精巧な機械であっても、問題は使う人の技術でしょう。一念によって正しくも、また逆にも、運用され使われていくのです。
 同じく一生成仏、宿命転換のこの信心の一念だけは、しっかりと指導どおりに純粋であっていただきたい。怨嫉をする、批判をする、恨善謗法、憎善謗法です。軽善謗法、信心している人たちを小バカにしていくことです。憎善謗法とは信心している人たちを憎む、恨善謗法は恨むことです。それから嫉善謗法は怨嫉です、指導を受けても聞かないという根性です。この四つの謗法をしたら、同じ大御本尊様をを見直して、いままでの先入観念を一変して「信心したい、学会を応援したい、公政連を応援したい」こういうふうになることもとうぜんであります。
 したがって、こういう細かい問題でいちいち神経を使うことは、やっかいでしょうけれども、いっさいが信心のうえからいえば「毒鼓の縁」になり、救えることはとうぜんでありますが、価値論のうえから、小さいことも気をつけて、社会ということを考えて、非常識な行動はとらないようにしていただきたいと思います。

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