Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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革新のなかの革新 5月度男子部幹部会

1963.5.6 「会長講演集」第9巻

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3  また日蓮大聖人様の御書に「当体蓮華」というおことばがあります。当体蓮華ということは、妙法蓮華経ということであります。その当体蓮華というその法を説明するために、譬喩蓮華を天台大師はよく使っておられました。
 照れ文書華の花は、花と実が同時に咲き実るという因果倶時を表わしております。当体蓮華として、妙法蓮華もやはり因果倶時の法則であります。それがいっさいの生命活動の本源であり、宇宙活動の根本であることは、皆さんもじゅうぶんに知っておられることと思いますが、二、三年前の新聞で、たまに報道される記事のなかに、千何百年前に、または二千年前の蓮の実が今日になってりっぱに花を咲かせた。このように報道されてきたことが何回かあります。
 いま日蓮大聖人様の仏法は、七百年以前に説かれた仏法であることはとうぜんであります。しかし、青年が幾百万、このように自分自身も人間革命し、また政治革命、社会革命をしていく、この現状の縮図を見た場合に、蓮の花が二千年前であっても、現在きちんと咲いたということは、現実に花が咲いたというその現象は、日蓮大聖人様の仏法が七百年間、今日まで伝わってきた。ちょうど日蓮大聖人様の仏法を実とたとえた場合に、いまが爛漫と蓮の花が咲いた第三文明の花が咲いたという姿であいつうずるわけであります。したがって、その姿こそ私はもっとも新しい革新の姿であると思うのですが、どうでしょうか。
4  保守でも救われなかった人間が、日蓮大聖人様の仏法によって救われた。革新といっても、叫んでも、救いきれなかった、何千、何万、何十万人の人が大御本尊様の力によって、学会の力によってりっぱに救われた。すなわち、だれびとがなんと批判しようが、創価学会の前進こそがもっとも私は進歩のなかの進歩であり、革新のなかの革新であると断言するのであります。
 批判する人それ自体が、創価学会の本質を知らないではありませんか。王仏冥合のなんたるかを知らないではありませんか。また宗教から論ずるならば、既成宗教に対して、それを保守とするならば、新興宗教は革新ともいえるかもしれません。
 ですから新興宗教といわれております。両方ともたいしたことはありませんし、邪道でありますけれども、知識階級がバカにされきっておりますけれども、じっさい創価学会の前進は、古さをいえば久遠元初、近くをいえば七百年前であります。だが既成仏法もひろまりきったあと、新興宗教もひろまりきったあと、ぜんぶひろまりきったあとに、創価学会の折伏の大行進があったわけです。あらゆる面から総合して、王仏冥合の思想、そしてまた創価学会の思想、前進の姿は、絶対に進歩のなかの進歩であると、一念のめざめがなくして、なんの真実の革新や進歩があるかと私はいいたいのです。本源的の一念のめざめがある、そこからでき上がったいっさいが、初めて私は真実の革新であり、進歩であると確信するのですけれども、どうでしょうか。
 どうか、私どもこそがもっとも時代の先駆を進み、時代を切り開いているという誇りをもって、だれびとがなんといおうが「なんと時代遅れなことをいっているのだ」と見下げつつ、楽しみきって仲良く、またこの一年間、がんばっていこうではありませんか。

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