Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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いっさいが功徳善根に 諏訪支部幹部会

1962.6.18 「会長講演集」第7巻

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5  一生は夢のようなものです。つまらない縁に紛動されて、せっかく日蓮大聖人様の出世の本懐である大御本尊様を受けながら、放すようなことがあっては、お気の毒であると思うのです。なにも勢力を拡大するために、おせじをつかって「やめてはいけませんよ」などという意味ではけっしてありません。
 先日は中部の大会で話があったごとく、片山さんという方の弟さんが弾圧を受けて退転して、地獄の苦しみを味わった。そしてまた、あらためて信心をした。せつせつと胸をうつ体験を聞きましたけれども、それでは反対した人が、しあわせにしてくれたかというと、してくれない。結局、自分自身が日蓮大聖人様のおおせどおりにやらなかったために、自分が不幸になってしまった。
 「私どものいうことを聞きなさい」とは、私はいいません。「日蓮大聖人様のおおせだけは、こんな乱世で、だれも、信頼できない残酷な世の中でも、ただ一つ、絶対にしあわせにてくださいます」ということを教えるのが、学会の指導ではありませんか。
 どうか勇敢に、信心だけは勇敢に、日蓮大聖人様のご金言だけは力強く実践いたしましょう。日蓮大聖人様も「南無妙法蓮華経は師子吼の如し」とおおせです。「なるほど信心が強い」「すごいものだ」そこに人々はついてくるのです。屈服してくるのです。信心ができてくるのです。御本尊様を拝んでいる先駆者が弱々しかったならば、知らない人々はついていきません。気の毒です。信心は強く、しかし行動、社会的なことには礼儀正しく、けっして暴言をはいたりなどしてはいけないと、私は思うのです。
 したがって、私どもは「なるほど創価学会の人々はたいしたものだ。生活のうえにおいても、それから、社会的な面においても、常識をきちんとわきまえ、りっぱなものだな。生き生きとしているな」こういうふうに示していくことそれ自体が信心であり、折伏であるのだという心をもって進んでまいりましょう。では、以上をもって失礼いたします。

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