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日蓮大聖人・池田大作

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いっさいが功徳善根に 諏訪支部幹部会

1962.6.18 「会長講演集」第7巻

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2  あまり功徳がほしくない人は、少し信心をすればいいのです。「私はまだ若いから、これからなのだから、たいしてしあわせになりたくない」といえば、あくまでも信心は自由ですから強制はしません。「もっと、もっと、しあわせになりたい。絶対なる幸福生活で、だれびとにも教えてあげたい。こんなに御本尊様の功徳はすごいのだ。自分はしあわせでいっぱいだ」と、いいきっていきたい人は、より以上、信心に励んでいただきたいと切望するのです。
 御本尊様も同じ、唱える題目も同じ、修行の仕方も同じですが、私は現在では、ほんとうに功徳に満ちて、日本一のしあわせ者のような気持ちでいます。しかし、過去はどうであったかといえば、たいへんな宿命転換への闘争をしてまいりました。小平先生も同じだと思います。秋谷理事も同じです。細川理事も同じです。皆さん方の先輩の大幹部や理事の方々は、みんな十五年、二十年と日蓮大聖人様のおおせどおりに信心修行をして、その結果を、今、獲得しているのです。ですから、皆さん方も同じ御本尊様をたもっているのですから「先輩以上にしあわせになり、大指導者になっていただきたい」と私は訴えるのです。
 期待をかけられている会長がこんな未熟なもので、私は申しわけないと思うのです。ですけれども、皆さん方の先輩の理事の方々は、ぜんぶ一級闘士であり、大学者であり、大指導者であります。まあ、私がそういうようなわけでありますから、理事百名だけではなくして、大幹部千五百名だけではなくして、皆さん方自体が会長以上の大指導者になっていただきたいと、お願いいたします。
3  さて、南無妙法蓮華経は、大宇宙の根本法則です。したがって、だれびとが否定しようが、だれびとが信じないといおうが、大法則自体はどうしようもない根本法則です。永遠に変わらない法則なのです。その大法則に、きちっとのっとっていける、もっともかんたんな方程式を、日蓮大聖人様がお残しになった。それは御本尊様として残され、題目をあげることによって、大法則にぜんぶリズムを合わせていくことになってしまうのです。ですから、願いはかなう、病気はなおる、生命力は横溢してくる、強くなっていく。結論をいえば、そういうような信心即生活になるわけなのです。
 したがって、私どもが信心をすると、いっさいの活動は、ぜんぶ生きてしまうのです。その御書の一節を拝読しておきます。いままでにも何回か申し上げましたけれども、有名な一生成仏抄のなかにある一節で、いちばんわかりやすいところです。「然る間・仏の名を唱へ経巻をよみ華をちらし香をひねるまでも皆我が一念に納めたる功徳善根なりと信心を取るべきなり」ということは、けっして日蓮正宗や創価学会のための信心でもないということなのです。
 日蓮大聖人様のおおせどおりの活動は、いっさいが、自分の功徳善根になるのだという御書なのです。自分のための信心です。「然る間・仏の名を唱へ経巻をよみ」というのはお題目をあげる、勤行です。「経巻をよみ」ですから方便品、自我偈になります。または「経巻をよみ」は折伏にも通ずるのです。また、認識をしない人々に王仏冥合を教えきっていくということも、経巻を読んでいくことです。御書は経巻ですから、王仏冥合は日蓮大聖人様の三大秘法抄のご文であり、実践であり、それを世の人々に教えていくわけです。
4  「華をちらし香をひねるまでも」というのは、華はおしきみです。「香をひねる」というのはお線香です。ロウソクもはいります。したがって、いっさいの私どもの活動、この幹部会にくる行動も、お題目をあげることも、折伏をすることも、王仏冥合への実践も、ぜんぶ日蓮大聖人様のおおせどおり、広宣流布に通ずる活動それ自体は、「皆我が一念に納めたる功徳善根なりと信心を取るべきなり」わが一念におさめたる、ぜんぶ自分の功徳善根となるという活動なのである、信心なのであると確信すべきです。また、そういう信心でなければならないというおおせなのです。
 したがって、すべて「広宣流布」とか「日蓮正宗創価学会の一員として働いている」といいますけれども、それとは反対に自分自身の宿命転換のために、ぜんぶ功徳善根を積めるのであるという信心ととりなさいという、この日蓮大聖人様のご金言をわが胸に刻んで、いっさいの活動を喜んで、歓喜に燃えて、大功徳の源泉にしていっていただきたいと、深く切望するのです。
 そして、お目にかかるたびに「ずいぶん元気になったなあ」「若くなったなあ」「功徳を受けて、すごくうれしそうですね」こういうふうに、おたがいにいえるような、諸法実相の現証をあらわしていこうではありませんか。
5  一生は夢のようなものです。つまらない縁に紛動されて、せっかく日蓮大聖人様の出世の本懐である大御本尊様を受けながら、放すようなことがあっては、お気の毒であると思うのです。なにも勢力を拡大するために、おせじをつかって「やめてはいけませんよ」などという意味ではけっしてありません。
 先日は中部の大会で話があったごとく、片山さんという方の弟さんが弾圧を受けて退転して、地獄の苦しみを味わった。そしてまた、あらためて信心をした。せつせつと胸をうつ体験を聞きましたけれども、それでは反対した人が、しあわせにしてくれたかというと、してくれない。結局、自分自身が日蓮大聖人様のおおせどおりにやらなかったために、自分が不幸になってしまった。
 「私どものいうことを聞きなさい」とは、私はいいません。「日蓮大聖人様のおおせだけは、こんな乱世で、だれも、信頼できない残酷な世の中でも、ただ一つ、絶対にしあわせにてくださいます」ということを教えるのが、学会の指導ではありませんか。
 どうか勇敢に、信心だけは勇敢に、日蓮大聖人様のご金言だけは力強く実践いたしましょう。日蓮大聖人様も「南無妙法蓮華経は師子吼の如し」とおおせです。「なるほど信心が強い」「すごいものだ」そこに人々はついてくるのです。屈服してくるのです。信心ができてくるのです。御本尊様を拝んでいる先駆者が弱々しかったならば、知らない人々はついていきません。気の毒です。信心は強く、しかし行動、社会的なことには礼儀正しく、けっして暴言をはいたりなどしてはいけないと、私は思うのです。
 したがって、私どもは「なるほど創価学会の人々はたいしたものだ。生活のうえにおいても、それから、社会的な面においても、常識をきちんとわきまえ、りっぱなものだな。生き生きとしているな」こういうふうに示していくことそれ自体が信心であり、折伏であるのだという心をもって進んでまいりましょう。では、以上をもって失礼いたします。

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