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革命と情熱の詩人・バイロン  

1957.6.23 「会長講演集」第4巻

前後
1  バイロンは、情熱にたぎった青年革命詩人であった。
 いまより百数十年前、イギリスの貴族と生まれ、千八百五年の夏、ハローを卒業し、その十月、ケンブリッジ大学へ入学した。ハローの上級生であった時、多くの美少年下級生等を集め、隠然として全校を圧していた。彼は、ビッコでありながら、学校第一の水泳の達人であり、大雄弁家でもあった。新校長バトラー博士任命の時は、その排斥運動の中心者でもあったか。
 また彼の処女作『悠遊の詩』という題で出版したのは十九歳の時である。彼の詩のなかに出てくる人々より、喧々轟々たる怒りの波をうけたのであった。しかし、人に負けることのいちばんきらいな男性バイロンは、いよいよ『天に声なし、人をしていわしむ』の確信を持って、自由のペンをふるいはじめた。
 限りなき広野をめざす詩情は、イスパニアへ、そしてマルタ島を経てギリシャまでの放浪の旅を試みた。帰国して、弱冠二十四歳の身をもって『チャイルド・ハロルドの旅』などの長詩集を出して、一躍、世界文壇の高峰に登り、英京ロンドンの人気を一身に集めた。
 また彼は社交界の花形となったが、わがままな性質は女性問題から世間の悪罵高まり、ふたたびイギリスを後に、放浪の旅に出たのである。しかるに、ギリシャの独立戦争起こるや、ペンを捨て――『おれは詩ばかり書くために生まれてきたのではないぞ。実行だ、闘争だ、前進だ。満腹の情熱をもって、自由民権のために死のう』と決意したのであった。時に三十五歳。
 バイロンは生まれて初めて意義ある生活を感じたのである。民衆のために戦う名誉と、勇気と、真の男子の事業を感じたのであった。
2  ギリシャ独立の勝利を目前にして『おれはあとにかわいい者を残して死ぬ。さあ、おれは少し眠るぞ』そういって寝返りをうち、こんこんと眠ったまま、ついにふたたび覚めることなく、しかし彼が絶命したのは、あくる日の夕暮れごろであった。雷鳴とともに豪雨がどっと降り、兵士も牧人たちも、バイロンの死を知らなかったという。時にバイロン三十六歳。
 バイロンは民衆を愛し、祖国を愛した。そして自分の生きがいは、その方法の善悪は別としても、自由のために、まっしぐらに戦うこと、そしてその実現には、観念でもなく、ペンでもなく、第一に実行、第二に実行、第三に実行と叫んで、革命運動に自分の本懐を見出したのである。
 『英国よ、われ、なんじを愛す。あまたのきずはあるがまま』と、祖国を愛した。
 バイロンが全英国民の胸底を揺り動かしたるギリシャに対する同情は、怒濤のごとき勢いで英国の政界に起こってきた。バイロンの憎悪したる反動的キャッスルレーは、すでに自殺して、自由主義の戦士キャニングが英国の外相の位置にあった。彼はこの世論の波に乗って、ギリシャ援助の声明を発して、トルコよりギリシャを救った。
3  死せるバイロンは、生きたるトルコを撃破したのである。そうして今日、ミソロンギーの寒村を訪るる人あらば、円柱に刻まるるバイロンの名をさして語るであろう。
 『ここに勇者の碑あり。彼は自由を愛したり。ゆえにきたりてギリシャのために死せり』と。
 情熱の詩人バイロンも、イタリアの革命詩人ダンテも、日本の若き文豪高山樗牛も、大聖哲の仏法を覚知せず、その情熱も永遠不滅の平和の戦さではなかった。真の自由の犠牲でもなかった。
 外道のときのわこうどなりとも、人生を生ききった。妙法五字に照らされたるわれらは、永遠につながる情熱を薫発して、広布に生ききるべきであろう。(当時、参謀室長)

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