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日蓮大聖人・池田大作

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奉安殿建立の意義  

1956.4.1 「会長講演集」第4巻

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1  戒壇御本尊奉安殿の設置は、正しく広宣流布への第一実証を意味するのであります。国立戒壇の建立こそ、悠遠六百七十有余年来の日蓮正宗の宿願であり、また創価学会の唯一の大目的なのであります。
 すなわち三大秘法抄いわく『戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり』云云との日蓮大聖人様の御教示は、戒壇建立をもって、三大秘法の仏法の成就であり、帰趨であり、大聖人様の御化導の究竟なりというのであります。
 しかして、宗祖大聖人様は、滅後の弟子、地湧の使徒に大慈大悲を垂れたまい、この本門戒壇の建立の大偉業を、お残しあそばされたのであります。
 なかんずく『時を待つべきのみ』と御予言なされて六百七十星霜。この間、宗門内外の幾多の法難、幾重もの飛湍も、大御本尊様の加護により、いま、ここに奉安殿建立とともに化儀の広宣流布の歴史的第一ページ段階にはいったわけであります。そして、末法の救世主、日蓮大聖人様の教えを仰ぐ正信の学会人一同の胸臆は、万感にうたれたのであります。
 立宗七百三年、十一月二十三日。この日は永久に歴史的な慶日となったのであります。
 この日、全山紅葉し、大気清澄の日蓮正宗総本山大石寺においては、法灯連綿として七百年、御開山日興上人いらい厳護したてまつった、一閻浮提総与の国立戒壇の大御本尊様を安置したてまつる戒壇御本尊奉安殿が落成し、落成式ならびに御遷座式が荘厳に挙行されたのであります。
 広布の暁鐘に霊峰富士は秋空に絵のごとく、時まさに午前十一時! 六十四世御法主水谷日昇上人猊下、堀日亨御隠尊猊下をはじめたてまつり、全僧侶が出仕、学会からは会長戸田先生のもと支部旗、青年部旗を先頭に、大幹部、地区部長等、会員三千二百余名の参列があり、おごそかに落慶の式が行なわれたのであります。
 ついで午後二時、御法主猊下の先導にて、戒壇の大御本尊様の御遷座、続いて高野宗務総監の先導で最初仏様、堀米尊能師の先導で御霊骨の三度の遷座の儀式があり、ひきつづき初御開扉が行なわれ、午後五時、厳粛のうちに霊山の式は終了したのであります。
 ここに代々の御法主猊下の大御本尊秘蔵したてまつる御宝蔵より、時に応じ、機に応じ、奉安殿にお遷し申し上げた意義は、まことに甚深であり、狭義より広義に移る大前提であり、守護より正法の大発展興隆を意味するものと信ずるものであります。
 現在まで安置の御宝蔵は、間口四間、奥行八間、寛正元年第九世・日有上人の時に小校倉に造られ、地上四尺の上に六尺の高さで土蔵造りでありました。
 そして寛政三年、三十七世日琫上人が再建、文久二年、五十二世、日霑上人が大修理を加え今日にいたったものと聞いております。
 折伏の大師匠・戸田会長先生の指導のもとに本尊流布に邁進する学会員の登山が、とみに増加、月二回の登山は月三回に四回にと、これまた一週を二回に分割登山する状態となり、一度の御開扉百八十人前後の状況が、奉安殿寄進の請願に進んだものであります。
2  請願書には『信行増進のため毎月数千の信徒が登山し、戒壇の大御本尊様に参詣し、懺悔滅罪と報恩謝徳をいたしております云云。さらに戒壇の大御本尊様をあらゆる外部の悪条件から完全に御守護申し上げることのできる鉄筋コンクリート製の近代的宝蔵で、しかも現在の一回の登山者の状況からみても、一千名以上、一度に参拝しうる外陣参拝式の建築物を御寄進申し上げ、信徒の誠を供養いたしたいと存じます』かくのごとく、このたびの御奉公は、清純学会員のみの浄財によって竣工なされたものであります。
 御遷座式に臨み、御法主上人猊下よりは、慶讃文を読みあげられ、『夫れ戒壇の本尊は、宗祖日蓮大聖人の本懐、末法衆生帰命の法体一宗依正の当体なり、宗祖大聖人弘安二年十月十二日之れを建立し血脈付法の二祖日興上人に宛て給わるところなり。上人身魂を尽くして護持し大石の寺に奉し、一閻浮提の座主日目上人に付してより乃至、国立戒壇の建立を待ちて六百七十余年今日に至れり云云。
 未だ時到らずいえども、本宗創価学会は折伏之命として只管広宣流布へ邁進しつつあり。その功あって信徒の増加は未曾有の実を示し、例月の登山参拝者は一山にみち、御宝蔵開扉の願主一堂に溢る。茲に法華講大講頭たる創価学会会長戸田城聖、大発願を起こし近代的様式による耐震耐火の大宝蔵を建立し寄進せり。血脈付法の法主を継げる日昇之れを受納して戒壇本尊奉安殿と名付け、ここに戒壇本尊を永久に安置し奉るなり。時を待つべきのみ事の戒法とは是なりの金言を身に体して、必ず来るべき国立戒壇建立の暁まで守護すべし。後の法主も一心同体たるべきを確信する』と遣使還告の法主の宣言は、三千法界に響いたのでありました。
3  続いて宗務総監よりは『本宗におきましては、御宝蔵といえば戒壇の御本尊という常識になっておりましたが、本日より戒壇本尊としての名称をえましたことは非常に意義深いものであります。なにを物語るかと申せば、日蓮正宗の信徒一同が、創価学会の不惜身命の折伏によってできたものであり、また、やがては国立戒壇建立にかかるのでしょうが、しかし、この名称をうけたことは意外にすみやかなあゆみであったと思います。そしてこのことは、国立戒壇建立の時がきたものと確信するものであります』また、このたび学頭になられた堀米権大僧正よりは『ここに奉安殿ができましたことは、正宗として一大転機をなすことと御同慶にたえません。日興上人はじめ上野殿等のおのおのの御弟子が、堅く護して以来、六百有余年のあいだ、僧侶はじめ、皆この御本尊様をお蔵からお出し申し上げたいと念願いたしてまいりましたが、今回この奉安殿に安置申し上げることは、当宗が一歩発展されたように感ぜられます』と深き思索のごあいさつがなされたのです。
4  会長戸田先生は『学会は大聖人様の時代に帰り、大聖人様の弟子檀にかえれというのが、私の主張であり信念であります。日蓮正宗の興隆は、それ自体が広宣流布を意味するものです。このような奉安殿ができましたことは、皆さまの努力によるものと喜んでおります。私からも、あなたがたにお礼申し上げます。いつかまた、大客殿の増営をしたいと思っておりますが、そのときまたおおいなる信念を奮い起こしてやっていただきたいと思います』
 誠心一途に御奉公申し上げる会長先生のおことばに、会員一同、わが身の信心をふりかえったことでありましよう。
 第二祖日興上人の御付属状によれば『国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり』と明確におおせられております。
5  しかれば、小乗の戒壇は遠くインドに、釈尊が園精舎の外院の東南に設けられたのをはじめとして、わが国においても、鑑真和尚の聖武帝のとき、奈良の東大寺に設置され、また淳和帝のとき、筑前の観世音の下野の薬師寺とに建立されたのであります。なお、さらに大乗戒壇は、淳和天皇の代、近江の延暦寺に建立され、四戒壇と称せられております。
 しかるに、大聖人様のたてたもう戒は、すでに教が本門の御本尊を受持し南無妙法蓮華経と唱題することが根本であるがゆえに、受持口唱を本門の本円戒となされているのであります。
 三大秘法口決に『本門寿量の大戒は虚空不動戒、無作の円戒と名づけ、本門寿量の大戒壇と名づく』とおおせられて、いちいちの行為において悪を止め、善をなさしむる戒を廃し、ひたすら仏の因行を行ずることができるのであります。
 三大秘法抄に『三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下してふみ給うべき戒壇なり』と。
 じつに末法尽未来際までも、一切衆生の成仏の喜びを切々と感ずるものであります。したがって、日本国、全東洋の民が救われてゆく第一歩の門出の姿が、奉安殿の建立に通じ、意義があることを自覚せねばならぬのであります。
 さらに会長戸田先生は、奉安殿建立に続いて、五層建築の大客殿の建設を意図あそばされておられるのであります。これまた、広布の暁が刻一刻と間近に迫る証明でなくて、なんでありましょうか。全世界の聖鐘は日本国、日本国には富士大石寺に鳴り響いているのであります。
 富士一跡門徒存知事にいわく『興云く、凡そ勝地を撰んで伽藍を建立するは仏法の通例なり、然れば駿河国・富士山は是れ日本第一の名山なり、最も此のみぎりに於て本門寺を建立すべき由・奏聞しおわんぬ、つて広宣流布の時至り国主此の法門を用いらるるの時は必ず富士山に立てらるべきなり
 しかして創価学会こそ、その仏意仏勅をこうむり、御本仏日蓮大聖人様の御金言を虚妄にせず、大聖人様正信の弟子として、一国広布、否東洋広宣流布に向かって、ひたぶるに御本尊様を信じたてまつり、不自惜身命の闘争をなしゆく団体なのであります。
6  最後に奉安殿の建立に浄財を御供養申し上げた幾万かの学会員の氏名が、奉安殿のなかに永久に御本尊様とともに保存されるという生涯の名誉、子孫末代まで功徳が回向されることを信じ、ここに勇んで折伏戦に進みゆかんとするものであります。(当時、参謀室長)

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