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日蓮大聖人・池田大作

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戸田先生一周忌を迎えて  

1959.3.20 「会長講演集」第4巻

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6  昭和三十三年五月三日、この日、第十八回春季総会が、両国の国際スタジアムで行なわれ、全国から三万二千の学会幹部が参加した。
 五月三日という日は、戸田先生が第二代会長に就任なさった記念の日であり、この日奇しくも、まる七年目に当たった。そして、この思い出の日、幹部一同は戸田先生をしのび、先生なきあとの広宣流布の決意を新たにし、新たな段階に勇ましく船出したのであった。
 総会は大成功であった。
 本部総会が終わると、引き続いて関西総会、六月には九州総会、七月には北海道総会が開かれ、想像に絶する学会員の広宣流布への力を示したのであった。また青年部としても、関西、九州、北海道の地で青年部総会を開き、学会青年男女の意気を日本全国に示したのである。
 『団結』の合いことばは、学会ぜんぶに広まり、こうして微動だにすることなく、広宣流布へのあゆみは続けられたのである。
 八月の夏季講習会には、戸田先生の残された一大原論、王仏冥合論の実践を目ざして真剣な講義が、幹部を集めて行なわれた。引き続いて、新支部結成への前提として夏季地方指導が北海道から九州にわたって繰り広げられた。これは、戸田先生の御構想であった地方拠点の育成が花を開き、実を結んだということができよう。
 九月には、国立競技場を埋めつくして、若人の祭典が繰り広げられた。若き青年男女の力強い姿、それを応援する七万の大観衆『次代をになうものは、いまここにつどう学会青年部しかない』と安井都知事が賛辞をささげたのもとうぜんのことであろう。
 十一月の第十九回秋季総会は、この半年の間、学会があゆんできた姿を明瞭に内外に明らかにしたものといえよう。このとき、十支部旗、五十六本の部隊旗が授与され、組織の一大発展と充実が行なわれたのである。
 折伏成果は上昇の一途をたどった。ことに御去のあった四月には、二万九千を記録し、伝統の八月には四万六千を越し、かくて十一月には年間目標であった百万世帯をゆうゆうと達成したのである。
7  こうなってみて、あてがはずれたのは邪宗団である。会長先生なきあとの依然として変わらぬ学会の前進の姿に、ひとたびは驚嘆し、ふたたびは断末魔の悲鳴をあげた。全邪宗団が結束して、学会に敵対をはじめた。これが墓地問題である。裏には全日仏の策動もうかがわれ、学会では仏法のうえからも法律のうえからも、断固たる正義の鉄を加えてきたのであった。すでに判決として懲役四か月の刑をうけた坊主もあることは、三類の強敵を破ったおおいなる証明であろう。
 昭和三十四年元旦、黎明の年は静かに明けた。学会本部ではこの日、戸田先生の録音テープをうかがって、重大段階に対する決意を新たにした。(1)学会世帯百三十万(2)各支部会館の充実(3)全国十か寺の建立、政界へ有能な人材の推薦を目ざして、新年への前進は始まった。すでに支部会館は過半数が決定し、各地の市会へ送られる学会員の数も多い。
 戸田先生は『信心は日蓮大聖人様の時代に帰れ』と申された。信心の方程式は、もったいなくも大聖人様がお示しである。しかし、われわれの行動は日興上人が教えられている。遺誡置文のなかに『未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事』とあるが『身命を賭して』のおおせを忘れてはならない。これを実践の移されたのが日目上人である。日目上人は七十四歳にいたるまで、国家諫暁を続けられ、粛然、エリを正さざるをえぬ最期を遂げられた。師命の実践に生き、実践に倒れたこの姿こそ、残された弟子の道であると信ずる。
 大聖人様の時代は法体の広宣流布、したがって信心一本で、今日のような組織はなかったものと思われる。しかし、いまは化儀の広宣流布、組織が要求される時代であって、学会の組織ほどりっぱにつくられているものはない。したがって、組織の上に立つものが『自己の信心がりっぱである』という錯覚が生ずるとき、学会の組織は動脈硬化する。ゆえに幹部がつねに師匠の教えを厳然と守り抜く信心、峻厳なる仏道修行の信心がなくてはならないと信ずる。
 われら遺弟一同は、一周忌を迎えるにあたって、名誉と確信をもち勇敢に前進していきたいものである。(当時、総務)

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