Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

岡崎支部結成大会 われらこそ真の勇者

1961.4.14 「会長講演集」第2巻

前後
1  創価学会の精神というものは何かといえば、ただ一つ、日蓮大聖人様の大仏法を、まじめに学び、かつ、まじめに実践しきって、幸福になっていくということが学会精神であります。
 したがって、大聖人様は、どのようにおおせであるか。ただ一つ、三大秘法のこの御本尊様を信じきっていきなさい。そうすれば、必ず仏になれる。絶対の、物心とものしあわせを獲得できるとおおせであります。その御本尊様を御紹介申し上げ、正しい指導によって、信心をまっとうさせようと努力しているのが、私どもであります。
 であるならば、ほんとうにしあわせになりたい人は、大聖人様のおおせどおりに信心しきっていけば、必ず幸福になります。あまりしあわせになりたくない人は、いいかげんに少しずつ信心していけば、それでいいのです。それはあくまでも皆さん方の自由であります。
 だが、私どもとしては、あまりにも不幸な私どもでありました。不幸な人が多い世界であります。信心をしっかりして、勇猛精進して、一日も早く、絶対の幸福、安心立命のしあわせになっていただきたいということを念願するのです。
 学会のために信心してくださいとか、日蓮正宗のために信心をお願いしますとか、そんなことは、牧口先生いらい、ただのひとことも申し上げておりません。
 皆さん方がしあわせになりたければ、大聖人様のおおせどおりに、勇敢に信心をしていくのです。信心というと、また信仰するというと、一般の人々は、必ずと言っていいぐらいに、あの人は弱い人である、あの人は盲信的である、あの人は他力本願であるというふうにみます。
 私も、また私どもも、一般の宗教、いままでの宗教に、邪宗教にたいしては、そのように軽べつします。
 羊のような、おぼけのような、生命力のない、地獄の生活をしていくような、なんの哲学もない、そんな宗教にたいしては、盲信的であり、弱い人が、ワラをもつかんで信心していくのだというふうに決めきっています。
 しかし、日蓮正宗創価学会だけは、そうではございません。大聖人様のおおせのなかに『此経難持の事』(四条金吾殿御返事236㌻)という御抄があります。この経をたもつことは難事である。大御本尊様をたもっていけば三障四魔もあります。三類の強敵もあります。人々から悪口も言われ、批判も言われます。であるがゆえに、宿命転換して仏になるのです。邪宗教なんか、いくら信心したって、だれからも悪口を言われません。誹謗もされません。功徳なんかあるわけもないし、反対に地獄へ行くのです。
 したがって、今、大御本尊様をたもてるということは、仏縁であることはとうぜんでありますが、絶対強い人、勇敢なものほど、大御本尊様を受持しきっていける資格があると、私は叫ぶのであります。
 大御本尊様を受持するということは、仏身をたもったことです。もったいなくも、大聖人様の御命が働くのです。したがって、ある人は自分の位置を考え、名誉を考え、人々から笑われることをきらい、御本尊様を受けることができない人が多いのです。
 私どもは、名誉も地位も、財産もありませんが、最高の仏法によって、真実の信心によって、不幸の人々を、だれが見ようが見まいが、その人を大御本尊様に、霊鷺山会に導いてあげようと、朝な夕な願い、実践しております。その人こそが、私は真の勇者であると思うのであります。
 したがって、皆さん方は、だれびとになんと言われようが、絶対に縁に紛動されないで、ひとたび創価学会にたいして、あらゆる三障四魔、三類の強敵を迎え撃つようなことがあったとするならば、他の邪宗教なんか立ち上がる気力や、他の教団などは、法が弱いゆえに、立ち上がる気力や強い団結などはありませんが、日蓮正宗創価学会だけは、ひとりひとりはもちろんのこと、学会が、火の玉となって、なにものをも貫きとおしていくという、絶対勝ち抜いていくという、師子王のような力をもって、前進しきっていこうではありませんか。
 法華経のなかに『六難九易』(法華経宝塔品第十一)ということばがあります。六つの難、むずかしいということ、九つのやさしいという意味です。末法において、この大御本尊様をたもって折伏をするということは、難事中の難事であるという釈尊の予言書です。たとえていえば、八万四千、十二部経を演説して、六神通をうるよりも、末法において折伏することはむずかしい。足の指で大千世界を他国へけとばすことはやさしいけれども、末法において、この御本尊様を受持し折伏をすることはむずかしい。
 また、業火のなか、劫焼のなかに、たくさんの枯れ草を背負ってはいることはやさしいけれども、末法にあって、大御本尊様を受持し、折伏することはむずかしいという、九つのやさしいたとえ、このやさしいたとえは非常にむずかしいのですが、それよりもずーっとむずかしいのであるということばです。迦葉、阿難も末法においては、力がないから難に耐えることはできないから、生まれてこられない。御本尊様を受持し、折伏もできない。だから釈迦はその人に三大秘法を付属しないというくらいにきびしい教えです。その三大秘法の仏法を、私どもは拝んでいる、受持している。そして大聖人様のおおせどおりに、広宣流布に日夜敢闘しております。
 その私どもを、大御本尊様が、諸天善神が、三世十方の仏菩薩が、守らないわけは断じてないと、私は確信するのです。もしか大御本尊様に功徳がない、諸天善神の加護がなければ、全員信心をやめた方がいいのです。とっくに私どもはやめております。そんなことは、また、絶対にございません。やれば必ず結果はでます。
 どうか、皆さま方ひとりひとりが師子王のごとき信心を奮い起こして『ひとり立つ時に強き者は真の勇者なり』なにも自分はないけれども、御本尊様を抱きしめて、自分も絶対のしあわせになり、人々もしあわせにできる仏の力があるのだ、自分は仏なのだと叫び、自覚しつつ、生活の革命を、生活の勝利を示していっていただきたいと念願申し上げまして、私の話といたします。おめでとうございました。

1
1