Nichiren・Ikeda
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第2回学生祭
真実の文芸復興
1960.11.27 「会長講演集」第1巻
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1 きょうは学生部の諸君とともに半日、楽しく、また、有意義に過ごさせていただきまして、心からお礼申し上げます。ほんとうに御苦労さまでございました。
法華経の開経に『無量義は一法より生ず』という原理が説かれております。『一法』とは南無妙法蓮華経のことであり、即三大秘法の大御本尊様のことでございます。『無量義』とはあらゆる思想、哲学のことを申しているわけであります。したがって、カントの哲学、ヘーゲルの哲学、プラトンの哲学、またはアリストテレス、ソクラテス、孔子、孟子と、いっさいの思想家、哲学者の説いた哲理というものは、南無妙法蓮華経からみるならば、絶待妙の立場からみるならば、その一部分であり、序文であり、流通分であります。
したがって、妙法を根底にしない哲学であるならば、真の幸福も、真実の永久の平和も、樹立することはできないわけです。
絶対に、大御本尊様を、日蓮大聖人様の大生命哲学のみを根底とするならば、いっさいの無量義も生きてくるし、真実の大衆の渇仰している幸福と平和が実現できるというのが学会精神でございます。
したがって、過去においては、有名なルネッサンス、文芸復興がありましたが、人間復興が唱えられましたが、それはキリスト教に対する、唯心哲学に対する、矛盾の哲学に対する、ふんまんから出発しております。
また、生命を、生命の尊厳を認めない、なんでも人間を殺してもかまわないという哲学も危険です、心配です。真実の人間革命、人間復興、文芸復興というものは、色心不二の日蓮大聖人様の哲学より出発しなければ、断じて幸福なる復興はできないと思うのでございます。
過去においても、幾多の大芸術家が、大文豪が出現しております。しかし、最後はみな悲劇であります。生命根本の解決の法を知らざるゆえに、かのトルストイも聖者と仰がれ、大文豪と言われながら、最後は名もない寒村で、雪の上で横死していっております。
超人格主義を唱えたニーチェも、最後は狂人であり、大文豪であるモーパッサンも、最後は狂人であります。また、大音楽家であるベートーベンすら、最後は教会の片隅で、寂しく、弟子の駆けつけてくるのにも間に合わずして、嵐のなかに死んでいっております。
どうしても、大生命哲学を根底とし、大御本尊様を根底にした、これからの、いっさいの芸術であり、文芸でなけけばならないと、私は痛感するものなのでございます。
願わくは、学生部の諸君は、信心を根本として、あるものは科学界に、あるものは政治界に、あるものは文豪とし、大芸術家とし、自分自身も喜びにみち、最高のしあわせを感じつつ、いっさいの人々に、いっさいの活動のなかから、幸福を与えきっていける、大人材であられんことを心から切望しまして、私の話といたします。