Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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男子部幹部会 学会は民衆の味方

1960.7.5 「会長講演集」第1巻

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2  また、日蓮大聖人様は、親であり、師匠であり、主人でございます。法華経にいわく『一切衆生はこれ吾が子なり』――その大聖人様の御本尊様精神、御慈悲を感じて戦ってきたのが恩師戸田城聖先生であり、私どもでございます。
 あくまでも創価学会の闘争の敵は邪宗教であり、さきほど拝読されました青年訓の、その最後の段にも『邪義、邪宗、邪師に向かっては』とあります。邪師とは坊主であり、教祖であり、元祖です。邪義、邪宗、邪師に向かっては、堂々と、一生涯、私どもは戦いきっていかなくてはならない。創価学会の、これは生命です。使命です。それを今度は、同じように邪宗邪義にたぶらかされ、ぜんぜん宗教を知らずして、おぼれて、ふしあわせになっている人々、その人までを憎んで『反対した。信心しなかった。もうあいつと付き合わない。あんな人と、もう口もきかない』というふうにいく行き方はあやまりであると思います。
 勤めに行っても『あの課長は信心しないし、おれのことを批判しているから、もう会社を休んでしまおう』そういうような偏狭な、排他的な行き方は、あやまりであると思うのです。
 敵は邪宗教であり、坊主であり、教祖である。邪義である。しかし、知らずして、邪宗教にたぶらかされて、おぼれて、不幸になっている人々に対しては『あくまでもその人たちは、われわれの味方なのだ。かわいそうな人なのだ』という寛容と寛大なる気持ちをもって、忍耐強く『ああ、かわいそうに、はやく日蓮正宗に入れてあげたい。御本尊様をもたせてあげたい』という、人一倍の慈悲をもって救っていくのが、われわれの使命なのではないかと思うのでございます。
 したがって、私どもは、大衆はわれわれの味方である。勤めに行っても、友人に会っても、おのおのの境遇にあっても、家庭にあっても大きい愛情をもって、人と接していただきたいと思いますし、それを反対し、批判し、真っ向から戦ってくる場合にい、堂々たるいくさをしなくてはいけません。一歩もしりぞいてはいけませんが、対等になってしまって、こっちがおこって、あとはもう口なんかきかない、そういうような偏頗ではなくして、より以上大きい慈愛をもって『なんとか救ってあげたい。創価学会へ導いてあげたい、大御本尊様に導いていきたい』こういう心をもって進んでいただきたいことを、まずお願いするものなのです。
3  最後に、われわれは信仰していなくても、なんらかで悩みをもっていくのが人生です。娑婆世界というのは勘忍の世界、だれびとたりとも悩みはあるのです。どうも私どもは他人をみると、幸福そうにみえたり、悩みがなさそうにみえますが、そうではないのです。
 名誉で悩んでいる人もいます。財産をもったがゆえに税務署で悩んでる人もいますし、権勢にこびて悩んでいる人もいるし、総裁になりたい、大臣になりたいといって、われわれよりか、よほど悩んでいる人もいます。一方、不良青年であるとか、それからパチンコがどれぐらいはいるかなんて悩んだり、まあずいぶん悩みはあるわけです。
 だが、今、私どもは、人を救おうという悩みです。折伏をどういうふうにして、そして御本尊様をもたせようかという悩みです。仏界の所具の悩みと申しましょうか、菩薩界所具の悩みと申しましょうか、最高の、人々を救う悩みをもって進んでいけるということは、これはまた、私は最高のしあわせであると信ずるのです。
 どうか、創価学会のために皆さん方は成長していただきたいとは申し上げません。全世界に貢献するためにも、あらゆる分野において、国家のため、大衆のために尽くしていただくためにも、御本尊様を根本として、大きくのびのびと成長していかれんことを切にお祈りして、きょうの私の話としたします。

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