Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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女子部幹部会 内外から感嘆される女性に

1960.7.4 「会長講演集」第1巻

前後
1  この間、会社の用事で行った帰りぎわに、東京駅のそばの純喫茶店にはいったのです。そのとき、数人の店員のなかに、非常にきわだって清楚な感じの、ピチピチと若アユのように働いている女性がおったのです。
 また、それから三、四日すぎたころ、私と原島先生と北条先生と柏原先生の四人で会合が終わってから、そこへまた行ったのです。私をはじめ四人の学会大幹部がぜんぶ『あの人はりっぱだな』と感心し、感嘆もしたのです。ところが、その人は女子部員なのです。
 その人は九時を過ぎておったと思いますが一生懸命働いているのです。そのうち、どうも様子が会長らしい、原島先生らしい、柏原先生らしいと気がついたのですね。今ごろどこをうろついてサボっているのかと......そうは思っていませんよ。こちらも会合を終わらせてからですから。それでその人があいさつしたのです。会合などにも出られそうにもありませんし、たいへんだなあと思ったものですから、外へ出てからちょうど見えましたので『信心を一生懸命やりなさいよ』こういうふうに激励しましたら『絶対に退転はいたしません』とニッコリ笑っていました。それで私たちも安心したのです。
 そこで、私は皆さん方に訴えたいことは、どこの会社においても、どこの境遇にあっても、職場にあっても、だれが見ても、きわだってりっぱだなと、内外の人から感嘆され、感心されるような社会人こそ、学会人であると私は思うのでございます。
 その人は組員らしいのですが、また組長かもしれませんが、区長になっても部隊長になっても恥ずかしくないと私は見ております。また、夜遅くまでそういう職場で働いているその人に対して、部隊長が偉いのか、区長が偉いのか、班長が偉いのか、そういう職場で信心をし、働いているということを、理解している幹部の人も私は偉いと思うのです。ふつうですと、会合に出られない、会合に出ないということで組員の人も非常に苦しい場合もありますし、また幹部の人も、その場限りのことしか見ないで、きびしく、皮肉に、その人をいじめる結果になる場合もあります。そういうことがあつてはならないと思います。ですから、幹部の方々は長い目でみて、そして理解し、心から部隊員の人をかわいがって、親切に守っていくという心がなくてはならないと思うのです。
 そういうふうに、ひとつ寛大な気持ちで、包容力をもって、長い目で、信心根本に、その人をりっぱな社会人に、りっぱな女子部員に、りっぱな幸福の女性に仕上げきっていきましょうね。
2  それからもうひとつ、最近、車に乗りますと、ほとんど学会員の運転手なのです。だんだん話していくうちに、運転手は、私も荒川支部員ですとか、私は蒲田支部ですとかいう。きのうもお山の帰りに車に乗って一生懸命お題目をあげていると、運転手が『あんた学会員ですか』というのです。『功徳がありますか』と聞くと、『私はたくさん受けています』と言いました。組長さんなのです。
 そうして家の近くになったら『どうも、会長先生と声が似てますね』という。で、私は『そうでございますか。私は同志にあってほんとうにうれしいです』と言いますと、相手の方も『うれしい』というのです。それから教学の話や体験談など、ずうっと話し合ってきたのですが、運転手は、私を組長と思って、自分と同じと思って握手をして帰ったようなわけです。まあ、こういうことは一か月のうちになんべんもありますよ。
 信心したばかりのある運転手が、やはり私の存在がわかって『じつは私も信心しているが、信心が強盛になってきたもとはこうなのだ』という体験談を私は聞かされたのです。それは初めて座談会に行ったとき、女子部の人の若い生命力、真剣な態度、理路整然たる宗教観、人生観、それを聞いて『こんな若い人がこんなにしっかりしているのでは、ちょっと私もまずいな』と、それで信心したというのです。
 それから、その次に誘われて地区講義に連れていってもらったところが、そのときもまた女子部の人の講師で講義があったらしいのです。それを見てびっくりしたというのです。『あんな若い人が、われわれが見ても読めないものを一生懸命講義している』それでまた、びっくりした。『自分も勉強しよう』また『自分の会社の――その運転手さんはことばが悪いのですよ――野郎どもにあの姿だけでも見せてあげたい』と思ったというのです。
 十八、九歳、二十歳前後の人が、あんなに数学を、また講義を真剣にしている姿に感嘆し、信心しない大勢の人たちに、教えてあげたいということを訴えていました。私も、ともにびっくりし、非常にうれしいと思いました。この姿こそ私は宗教改革の姿であると断言いたします。
 一般の人はなにも知らないのです。常識的にりっぱそうなことをいって、宗教観、人生観、生命観、という確固たる大生命哲学を根底にした理念、考え方というものはないのです。一般の人は批判します。批判はするけれども、いや、このほうが正しいのだ。どうれば幸福になるのだという方法はだれも知らないのです。ですから、だれびとからどんなことを言われようが、私どもは、末法の救世主、日蓮大聖人様のおおせどおりに、すくすくと、確信もって、いっしょに楽しく前進していきましょう。
3  なにやかやと批判している人々も、心のなかでは、やきもちを焼いているのです。また批判している人々も、一年たち、二年たち、三年たち、七年たつうちに、みんな『ああ、早く強く折伏してくれればよかったのに。あんな批判するのではなかったな』と、こういうふうに後悔することは決まっているのですから、大きい心で私どもは進んでいかねばならないと思うです。
 そのことについて、きょう申し上げたいことがあるのです。それは恩師戸田城聖先生の教えから拝しても、一切衆生を愛さなくてはならないいくさであると青年訓にございます。今、私どもの闘争は邪宗教が敵である。これは、はっきりしています。一切大衆は味方なのです。したがって真言宗とか念仏とか、禅宗とかそういう元祖ならびにそういう法は間違いである。人人を不幸にする根本義であるといって戦いきっていきましょう。これは永久の戦いです。また立正佼成会、天理教、霊友会、浄風会をつくった教祖は敵です。また、そういうインチキな教義もぜんぶ打ち破っていかなければいけません。ひとびとを不幸にし、国を滅ぼすのですから。これは敵なのです。
 それを今度は錯覚して、私どもの隣人、宗教も知らず、正法も知らずして、邪宗教にぶかされて不幸になっているひとを折伏する。そのときに、その人まで憎んでしまう場合がある。反対したり、一生懸命聞かないと『なんだ、あんたなんか、バチあたり』それで職場で会っても、近所で会っても、口をきかない。そういう考え
 方は誤りであると思います。
 一切衆生を愛していく寛大な気持ちが必要なのです。その人が反対すればするほど、かわいそうなのですから『またもう一度会いましょうね』と。会えば『こんにちは! どう、お元気。商売のほうはどう。また暇があったらいらっしゃいね』というふうにして、じゅんじゅんと忍耐強く、折伏し、指導し、御本尊様にみちびいていくのです。偏狭な気持ちから、排他的になって、その人が座談会や指導や何かの会合にこられなくするのは間違いなのです。
 一切衆生が味方である。敵は邪宗邪義であり、邪宗の坊主であり教祖である。この天のケジメだけは、はっきりとしていかなければ、全大衆を救い、全大衆に対して、大御本尊様の功徳を日蓮大聖人様の大生命哲学を、納得せしめていくとができないと私は思うのですが、どうでしょうか。どうか、この点だけは、よくわかって
 いただきたいと思うのです。
4  一家においても、おかあさんが信心しないと『敵だ!』とか......おかあさんですよ。食べさせてもらってきたのですよ。なかなか聞けなかったら、その聞かせないようにした邪宗教が悪いのです。『だまされているのですよ』というふうに教えていくのが私どもなのです。その人まで、邪宗の元祖や教祖などと同じように、向こうにみて、絶対もう許さないなんて、そういう考え方は間違いになりますから、その点だけは、よく理解していただきたい。そして邪宗を邪義を、また邪宗の元祖を、徹底的に憎んで、破折していく、また、たぶらかされている民衆を救っていくのだ、わからせていくのだという心を、どうかひとつ、さらに大きくおもちになって、大折伏戦に進んでいただきたいと思うしだいなのです。
 暑いし、またいろいろと疲れてきますと事故も多いですから、からだだけは、くれぐれも大事にして、仲良く、激励し合って、強い強い団結の姿で、七月度も闘争して、八月度の幹部会には、元気いっぱいの姿を見せていただきたいと思います。

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