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城東支部幹部会 仏法は道理なり

1960.6.7 「会長講演集」第1巻

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1  城東の同志の皆さん、今後ともよろしくお願いいたします。
 創価学会の会長、そしてまた、幹部のなさねばならないことは何かといえば、一口にいって信心した人々を、まっすぐに大御本尊様に近づけて、一人前の強信の信者にしていく信心指導の徹底にあるわけです。
 また、もう一つは、まだ邪宗教にたぶらかされて、大御本尊様を知らない人々に、大御本尊様を教えて、幸福にさせていくことだけが、会長はじめ全幹部の、ただ一つの目的なのでございます。
 あとのことは、ぜんぶ枝葉です。往々にして本すじの学会の行き方を忘れて、枝葉のことに大騒ぎして、つまらない、いやな空気を、班の内部でも、地区の内部でも、支部の内部でもつくっていくということは、恐ろしいことであるし、また大御本尊様に申しわけないことであるし、その責任は私どもにあるわけです。
 私は、きのう、ある親しい、関西からきた弁護士の人と会いましたが、その人が言うのに『あなたのことを、関西のほうで二、三、神さまか、生き仏さまみたいに思っている人がいますよ』と言われたのです。まあ尊敬してくれることは非常にうれしいと思いますが、ちょっと行き過ぎなのです。私の本意ではありませんし、間違ったことを、流されることも恐ろしいことです。
2  仏さまは、末法においては日蓮大聖人御ひとりです。あとはぜんぶ弟子です。ただ『地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり』大御本尊様を拝み、大御本尊様に題目をあげ、折伏行を励むものは、地涌の菩薩であるということは、経文のうえで歴然としております。地涌の菩薩には間違いないのです。しかし、私みたいなものが、こんな顔をしているものが、仏さまみたいだ、神さまみたいだなんて、おかしくて、どういうふうに弁解していいかわからないのです。
 他の邪宗教においては、立正佼成会でも、霊友会でも、天理教でも、いっさいの邪宗教の元祖や教祖というものは、まるで神さまのごとく、生き仏さまのような姿をみせて、りっぱそうなことをいって、人々をあやつっていますけれど、ぜんぶ偽善者です。魔物です。そういうことには私どもはダマされてはいけません。なにも力などありません。
 今、私ども創価学会員は、日蓮正宗の信者は、大御本尊様を根本とし、大御本尊様を信ずるがゆえに、だれよりも力が出、人々を救う原動力が出るということで、信念をもとうではありませんか。
 私の顔は見てくださればわかるように、私より原島先生や、北条先生や、柏原先生のほうがよっぽどいい相をしていらっしゃいますよ。へたしますと、あまり純真な人は、手を合わすくらいですよ。私などに手を合わせたならば顔がおかしくなってしまいます。そういうことはなしにしてください。ぜんぶ御本尊様です。御本尊様以外にないということを教えるのが創価学会であり、会長の役目なのです。これでいいでしょう。これでいきましょう。
 ですから、邪宗教の、そんな元祖や教祖などに、ダマされてはいけません。創価学会が大御本尊様を信じきっていく、これ以外に広宣流布もないし、また人を救う道はありませんし、その御本尊様を信じきる力によって、仏界の力も出ます、菩薩界の力も出ます。生活のうえに、人生の活動のうえに、あらゆる闘争のうえに、大きく力が出てくることだけは間違いありません。それが信仰なのです。
 次に申し上げておきたいことは、今のことは過大評価をしたり、そういうような人があったならば、それは会長の本意でない、学会の行き方ではないのだと。尊敬はいいけれど、おのおの尊敬し合うことは経文にあるのですから。過大評価をして、まるで第三者が見て、邪宗教と同じみたいにさせておくことは、えらい損害です。
 戸田先生当時も、先生のことを、生き仏、神さまなどというと、先生はえらくおこられていましたけれども、そういう行き方ではないのです。ありのままの人間の姿です。また私は青年らしく、大御本尊様を拝み、これから一生懸命勉強し、うんと苦労し、人々のために護法のために仕えたい、働きたいという会長でいきたいと思うのです。
3  それから『仏法は道理なり』(四条金吾殿御返事1168㌻)ということばがあるのです。城東関係において、二、三の幹部の方が自動車事故でケガをなすったことを伺いました。五寸クギを打たれるような思いで報告を受けましたけれども、その人の罪業とはいえ、非常に悲しいです。苦しい思いです。座談会の帰りであると、うけたまわりましたが、仏法は道理です。
 まずその道理という問題でお話を申し上げれば、道理に反した宗教、これを邪教というのです。邪宗というのです。日蓮正宗の仏法、大聖人様の仏法は道理です。どちらから推測しても、どこから研究しても、どちらから討究しても、宇宙の大リズムに合致した、哲学的にも、科学的にも、矛盾のない宗教が正法なのです。
 今度は一つの例をあげれば、念仏です。西方十万億土に極楽浄土がある。そんな遠くへ行った人はいません。行って帰ってきた人もいません。西方極楽浄土という西とは、夕日を意味したのですね。三千年前の人に対する一つの方便として、荘厳なる夕日の現象を指さして、向こうのほうに極楽浄土があるのだよと説いたのです。道理に合っておりません。だから念仏はいけない。釈尊みずから打ち破っております。
 キリスト教において死ねば天国に行くという。天国へ行って帰ってきた人がいるか。まあ、そんな器用な人はいませんね。いくらロケット時代であっても、そうはいきません。道理に合っておりません。一つ一つの宗教について、ぜんぶ討究し、研究しても、みな矛盾がある。科学的に推測し、哲学的に討究してみれば『だから間違っておる、邪教なのだ、低級宗教なのだ』という考え方になるわけなのです。以上は外に向かってのことです。
4  次に、内に向かって、そのことを考えてみたいと思うのです。信心したから仕事をしなくても功徳があるか。そんな道理はありません。信心しているから夜の十二時、一時まで起きておって、あくる日、ねむくないか、そんなバカなことはありません。信心しているのだから、世間の人に迷惑をかけてもいいか、そんな道理もありません。私は幹部だから、どんなにインチキしようとも、どんなに学会人をしいたげようが、金を借りようが、女の人をいじめようが、かまわないか。そんな道理はありません。そういう道理に合わない行き方をしておる人は、功徳がありません。罰を受けます。そういう意味において、あらゆる点で道理正しい信心、まじめなる信念、まじめなる指導をうけて、まじめなる生活をしていただきたいと思うのです。
 そうでありませんと、新しく信心した人々や、それから、純真な人々が非常に迷う場合があります。まじめなる信心、まじめなる折伏、まじめなる生活、これでいきましょう。どうでしょうか。
5  大聖人様は『折伏にあたり、笑みをたたえて』ということばがありますが、私ども折伏にあっても、指導にあっても、その人のことを思って、慈悲をもって指導し、折伏をしていかなければならないと思うのです。かねがね恩師戸田情勢先生も申されておりましたが、当然のことであります。
 初めから、もう目をつりあげて、指導する場合でも、折伏する場合でも、弱い人間に限って、指導する場合などでも大きい声をはりあげて、ハッタリがあるのです。ほんとうに力があり、その人のことを思っている場合には、じゅんじゅんと納得のいくように、親切に話しております。また、なんでもかでも初めからケンカ腰になったり、初めからバカにしたり、そういうような行き方は禁物です。
 指導にあたっても折伏にあたっても、慈悲を根本として、その人を思う一念で、道理正しく納得のいくように、洋々たる気持ちで、寛大な気持ちで指導にあたり、折伏に進んでいきたいと思うのです。
 もう一つ、それに付け加えての話になりますが、それは支部といおうが、地区といおうが、班といおうが、組といおうが、ぜんぶ人間関係です。法といえども、詮するところは人に帰着する。そして組織、組織といっても、人間の集団なのです。城東支部という組織はありません、どこにも、何々地区という組織はありません。だが目に見えないけれども、実在するわけですが、なにと、なにとの関係によって実在するのか。ぜんぶ人間対人間の関係です。
6  せんじつめると、人間関係はどういう活動によって動くか。それは人間の感情と理性です。わが地区はダメだ、わが班は成果があがらない、わが組が活発でないといっても、成果はあがらない、活発ではない、低調だというものは、なにかといえば、その組織のなかにいる人間同士の人々の状態になるわけです。
 ですから組織という、それだけに錯覚して、そうして指導していこうとするところに、大きな間違いを生ずる場合があるのです。ぜんぶ人間対人間の指導であり、つながりであるわけです。非常に静かな奥さんに対して、鬼みたいな顔をして『あなた、まだ一生懸命折伏しないの』なんて言ったって『あら、おっかないわ。あまり支部へくるのよしましょう』という場合もあるでしょう。
 病気の人に、題目がたりない、何偏あげているのですかというように、強く言ってしまったがゆえに、その人がぺしゃんとなる場合も考えられます。
 その人の機根、その人の状態に応じて、まごころこめて、慈愛をこめて指導の任にあたることです。人間感情というものは非常に微妙ですから、命令系統や、圧力を与えることをさけて、あくまでも真実と、まごころと、信心のうえにつながって、人間対人間、個人対個人との立場で指導していくならば、必ずや、私は、地区も、班も、組も、大きい発展があると確信するのです。
7  最後に、私どもの信心の目的は何か、仏になることです。戸田先生は『生きているそれ自体が楽しい。それが仏の境涯であろうか。瞬間、瞬間の生活、瞬間、瞬間の人生、その人生が、楽しみに横溢している。楽しくて楽しくてたまらない。これが仏の生命であろうか』と申されておりましたが、そういう自分自身を確立するまでは、そういう自分自身を獲得するまでは、どんなことがあっても退転しないで、人間革命にいそしんでいきましょう。
 そして、まず根本は大御本尊様に題目を唱え、折伏に励み、どんなことがあっても、大御本尊様にすがりきっていくことです。放さないということです。御本尊様を疑わないということです。
 生命は永遠でありますが、今世の、まるで地獄のような世界、暗たんたる将来、そのなかにあって、私どもの世界だけは、また私どものいるところだけは『我此土安穏』――我が土は安穏である。たとえ、どういう嵐があろうとも、どういう雨が降ろうとも、資本主義であろうとも、社会主義になろうとも、共産主義になろうとも、自由主義であろうとも、どんな事態があっても、御本尊様に照らされて、悠々と楽しみきっていける人生を送っていこうではありませんか。

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