Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第九章 人間の安全保障――核兵器のない…  

「21世紀への選択」マジッド・テヘラニアン(池田大作全集第108巻)

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12  人間生命の内なる変革が平和を築く
 池田 仏法では、「十界」といって、どんな人間にも十とおりの生命境界があると洞察しています。
 いうなれば、戦争に巻き込まれた人間の生命状態は、このなかでももっとも低い「地獄界」「餓鬼界」「畜生界」「修羅界」の三悪道四悪趣におおわれたもので、本能と欲望に支配されるままの状態と言えましょう。そうした状態にある人間の思慮も行動も、愚かで野蛮であることをまぬかれないのは、仏法の知見からみれば道理なのです。
 かりに表面上の平和――「外なる平和」が達成されたとしても、それはちょっとした縁でたやすく崩れてしまうもろい存在です。迂遠なようでも、崩れない平和を建設する礎となるのは一人一人の人間の心の中に平和を築く、つまり「内なる平和」を確立することであると考え、私どもSGIは「人間革命」運動を世界に広げてきました。
 この人間生命の内なる変革が、波が波を呼ぶように、賢明なる民衆のスクラムとなって連動するとき、「戦乱」と「暴力」の宿命的な流転から必ずや人類を解き放つであろうことを、私は信じてやまないのです。
 テヘラニアン 会長が賢明にも提起された「内的な平和」と「外的な平和」の関係について、あるペルシャの詩人が、次のように巧みに表現しています。
 「生命のない存在が、他の存在に
  生命を与えるなど、どうしてできるのか」
 自己の内面に平和のない人が、どうして他者に平和を伝えられるのか――私にも、それは不可能なことであると思われます。
 外面の世界は、非常に複雑な紛争の多いところであって、平和を確立するのは容易ではないかもしれません。しかし人はだれもが、一つの寄与ならできるはずです。では、どこから始めればよいのか――。
 自分の影響力をもっとも受け入れられるところは自己の内面であり、まずそこに向きあうべきです。
 スーフィーの教えでも、自己に克つことをもっとも偉大なことであるとしています。自制のない自我は自己の最大の敵となり、それが絶えず人を独善へ、瞋恚へ、貪欲へ、憎悪へ、排他へと向かわしめます。
 池田 よく、分かります。
 仏法の一つの眼目も、そうした「自己規律の力」をやしなっていくことにあるのです。
 テヘラニアン スーフィーの教えでは、人の内面にはもう一つの自我があり、これは教育や訓練、また慈愛の心を通じて目覚めると説きます。
 こうして、自我と他者との二元性を超越することが、迷妄から覚めた平和の人生へのカギとなっていくのです。
 自己の利益を他者の利益と区分し続けるかぎり、紛争の種をまいていることに変わりはないでしょう。
 私たち人間の「生」は、もっと大きな存在の一部であって、他のすべての生命体と「相互依存」の関係にあることを認識することが重要です。
 そう認識すれば、個別的と思われる肉体的存在がまねく、不可避的な宿業である紛争をも解決する道を、私たちは歩めるのではないでしょうか。
13  深い生命の尊厳観が人間共和の源泉に
 池田 仏法の「縁起」の思想にも相通じる考え方ですね。「縁りて起こる」とあるように、人間界であれ、自然界であれ、単独で生起する現象はこの世に一つもないと見ます。万物はたがいに関係しあい、支えあいながら、一つのコスモス(調和世界)を形成し流転していく、ととらえていくのです。
 「自分は生きている! 自分は、大きな生命の一部なのだ!」――こうした「生命」というもっとも普遍的な次元への深き詩的な眼差しは、そのまま、限りない多様性への「共感」となって広がっていきましょう。
 この生命の内奥から発する「共感」、いうなれば生命を内在的に掘り下げていったところに立ち現れる透徹した“平等観”や“尊厳観”こそ、「人間共和の世界」の源泉となりうるのではないでしょうか。
 テヘラニアン つまり、共生といっても、たんに「他者の存在を認める」といった表面的な寛容の精神だけでは不十分であるということですね。
 池田 ええ。それは、たんなる心構えといった次元を突き抜けて、生命の奥底から湧く秩序感覚、コスモス感覚に根ざしたものでなければならないでしょう。
 また、仏法では「依正不二」といって、生命活動の主体である「正報」と、環境である「依報」が二にして不二であると説きます。つまり、「主体」としての人間の生き方、生命状態が「環境」にも大きな影響をあたえていく――「内なる平和」の確立なくして「外なる平和」の創造は困難と考えるのです。
 ただし、「心の平和」だけではこの激動の社会の中で、たんなる観念論や抽象論の域にとどまってしまう危険性もないわけではありません。
 ゆえに私は、それと同時に、社会の平和と調和を追求する「現実の行動」が必要になると考えます。具体的実践がともなってこそ、「平和」は現実としての形をとりはじめ、定着しはじめていくのです。また、その戦いのなかでこそ一人一人の「内面の平和」も陶冶され、崩れないものになっていくのではないでしょうか。
 こうした往還作業が、やがて時代を突き動かす力となっていくと、私は強く確信するのです。

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